バカボンド 

バカボンドがマイブームです。

井上♂彦は、この作品を書くために、空手をやりだしたという。
身体的な変化が、この作品には現れていると述べていたが、作者の身体感覚が、そのまんま武蔵の身体感覚にも出ているんだろう。それがとても伝わってくる。

「今」 「この瞬間」に全精力を込めればいいんだ、先なんかみちゃだめなんだ。武蔵の身体にそれはあらわれてしまう。先を見てしまうと、いまという瞬間のパフォーマンスの低下を促してしまう。

では、「いま」っていうこの瞬間は・・・・現在の立脚点ではあるのだけど、すぐに過去になってしまい、そして、1セカンド後には未来がやってくる。だから、過去も未来も、この「いま」というときは含有している。過去・現在・未来が、このいまという瞬間をつなげる地点になるわけだ。武蔵のパフォーマンスでいうなら、未来というものについて、いまから離れてしまった未来について見てはいけない、コストパフォーマンスの低下を促すっていうけだ。先を見てしまうと重くなって、いまから離れてしまう。そうなのかもしれないね。ぼくは何度もそれを見ているわけだからそれがいけないのだって、武蔵は教えてくれているんだと思う。しかし、こういうのは、すさまじい覚悟をとまなってのことなのだけどさheart04

半端じゃないです、武蔵!それから、井上♂彦は、日本の宝だ。吉川英治の原作もすごいんだろうけど、日本の武士道精神ってこれになるんだと思う。あとは、これ鉛筆ではなく、筆と墨ってのがいのかな。普通のマンガとはやっぱり違う。
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プリズンホテル 春夏秋冬

本は『プリズンホテル』 春夏秋冬を読み始めている。夏目漱石『こころ』と並列読み・・・なんていうか漫画みたいな小説です。しかも女子アナたちに解説を書かせている・・・春夏秋冬っていう4字熟語をみてジャケ買いしちゃったのですが、シリーズは1が夏(ブルー)、2が秋(黄色)、3が赤(冬)、4が春(ピンク)となっています。
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『日と月と刀』 丸山健二

『日と月と刀』 丸山健二
文藝春秋、208年、4月。

本屋でじゃけ買い。
2冊で、あれ、そんなするのって。

でも、これすごいや。最高傑作だよ。
僕はこの人の作品ね、いままでスルーしてるし、
実は紀伊国屋で一度握手したことはあったかなw
けど、まだ出会っていなかった。成熟しすぎてるってかなw

ただ、大江健三郎よりは、ぜんぜんいいの。
何がいいんだよってさ。しかし、すごいの書いたよ。

馬の絵だよ。それで、ひひーん!命中。

ぱらぱらと読み始めているけど、すごい作品です。
僕は、こんなような作品に、たぶん、出会いたかった。

丸山氏が還暦すぎて、だいぶあたためて出した作品なわけだから、僕はこの本をなるべくゆっくり読みたい。かなり実験的な手法だといえるし、こういうスタイルって、なかなか最近みないよ。

インタビュー コピペ しかももっちーなんて!wwwなんで世界ってこんな狭いんだろうclub

四十代後半に狙いをつけた長編小説があった。テーマも構想も充分だったが、敢えて書かなかった。なぜなら、その大空を飛翔するだけの翼の力が具わっていないという自覚があったからだ。

日本が最も日本らしく、底抜けに自由で、生き生きとしていた室町時代を背景に、かの有名な「日月山水図」の屏風絵と、それを描いた作者が不詳であることを想像の起爆剤に用い、極めて大胆な発想によって、小説の原点とも言うべきめくるめく物語を構築し、かつてどの書き手も為し得なかった形式と、漢語と大和言葉との融和を図る文体を存分に駆使しなければならない、新境地だった。六十代に入ってまもなく、今ならそれが書けるという自信を得た。

ぶっ飛んだ小説を、原始的で、呪術的で、異常なまでの吸引力を秘め、それでいながら格調の高い大叙事詩のごとき長編小説を無性に書きたくなった。膨大な資料を読みあさりはじめたのが二年ほど前だった。そして、昨年の暮れに千三百枚を脱稿した。

あれくらいの長い年月を費やさなければ、これくらいの作品は書けないのだということが、また、この喜びを味わうための四十数年の助走であったということが実感された。

Maruyama

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今の自分へ

五感が戻り、喜怒哀楽がむくむくわきあがり、感官の戻ってきている今の自分へ、この言葉を書いておく。亀の薬を食べたのに、それでも、嵐にまみれて平常心を失いそうになり、世間の雑音に負けそうになる。そんな弱虫だったのかと自分に問う、冬が過ぎ去ったからといって、すべてを忘れてしまっていいのか。どれだけの覚悟で戦ってきたか、それすら忘れようとしているのか。新しい地点へ到達した自分に、自分のなかにいる敵に対して負けそうな自分へ、この言葉をとどめておく。


『バガヴァッド・ギーター』、上村勝彦 訳、岩波文庫
・・・物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来ては去り、無常である。それに耐えよ、アルジュナ。
 それらの接触に苦しめられない人、苦楽を平等(同一)のものと見る賢者は、不死となることができる。
非有(身体)には存在はない。実有(個我)には非存在はない。真理を見る人々は、この両者の分かれ目を見る。(34-35)

・・・あなたの敵は、語るべきでない多くのことを語るであろう。あなたの能力を難じながら。これほどつらいことがあろうか。
 あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。
 苦楽、損失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。((37-38)

欲望を性とし、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。
 その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々にとって、決定を性とする知性が三味(サマーデイ)において形成されることはない。
 ヴェーダは、三要素よりなるもの(現象界)を対象とする。三要素よりなるものを離れよ。アルジュナ。相対を離れ、常に純質に立脚し、獲得と保全を離れ、自己を制御せよ。(38)


 知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する
 あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。(39)

 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己においてのみ満足するとき、その人は智慧が確立したと言われる。
 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡智が確立した聖者と言われる。
 すべてのものに愛着なく、種々の善意のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している。
 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収めるとき、その人の智慧は確立している。(40-41)

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星の王子様

お師匠様がなぜ、星の王子様なのか?・・・それは、目に見えないものが見えているからかな。この物語のエンディングについて少し考えていたのだけど、これって続篇があってもいいんじゃないかと思う。だって、彼は空間移動しただけなんだから。

***
 お師匠様は宇宙人だけど、地球という惑星の日本という国に到着して、そして、僕はそこで彼と出会い、そして、ここから去っていった。実際のところ、ぼくが去っただけなんだけどさ。でも、それは、失ったというのではなく、違う空間に移動していたといっていいのだろう。
 そして、また、ぼくはこの春、お師匠様と再会することになった。
 だから、ぼくは、こういいたい。彼が戻った、と・・・

お師匠様=星の王子様
 ヒツジの絵を描いてというお師匠様に、ぼくはヒツジの絵を描くけど、それはお師匠様のお目にかなわず、ぼくはヒツジの箱を書く。絵の中にはヒツジは描かれていない。でも、お師匠様には、目にみえていないはずの箱の中が見えてしまう。見えていないものが見えているお師匠様=星の王子様だ!

 『星の王子様』のなかで、王子様は顔を紅潮させて、こんなことを言っている。
 「もしも誰かが、何百万もの星の中のたった1つの星に咲く花を愛していたら、その人は星空を見るだけで幸せになれる。自分に向かってこう言える――『ぼくの花がどこかにある・・・』もしヒツジが食べてしまったら、それはその人にとって全部の星の光がいきなり消えてしまうことなんだ!それが大事じゃないって言うの!」(39-41)
 王子様って、案外、ホットだ。でも、これはズバリだと思う。

 それから、王子様が出会った動物にキツネがいて、キツネが王子様にこんなことを言う。
 「肝心なことは目では見えない」(104)ということば。そして、たった1つの花がどれだけ大事かということ。、「たった1つの庭で5000本のバラを育てても、自分が本当に探しているものがみつけられない」(116)という指摘。 「みんなが探しているものはたった1本のバラやほんの少しの水のなかに見つかるのに・・・」と。そして、「目には見えないんだ。心で探さないとだめなのさ」ということ。
 王子様はキツネを飼い馴らしたあと、キツネから世界にたった1つしかない花の大事さを教えられる。


 たった1つの花があれば、ぼくは満足できるんだ。ぼくは、あの日、夜空を確認したとき、もう気がついていたのかもしれない。ほんとうのことをいうと、ぼくはすっかり、現実世界では、そのたった1つの花なんてことを完全に忘れていた。

 たった1つだけの花を見つけられればそれでいい。
 星の王子様との再会は、そういうことを思い出させてくれたheart04『星の王子様』には、たった1つの花のこと以外にも多くのメッセージがこめられているんだけどねvirgo何回読んでも、うるうるしてしまうshine
Hosi

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モモ

ミヒャエル・エンデ、『モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 』
「モモ、時間の国につく」
 「これは星の時間をあらわす時計だ。」と、マイスター・ホラは言いました。「めったにあらわれないような星の時間を、確実に教えてくれる時計なんだが、ちょうどいまそういう1時間がはじまったところなのだよ。」
 「星の時間て、なんなの?とモモはききました。
 「いいか、宇宙には、あるとくべつな瞬間というものがときどきあるのだ。」とマイスター・ホラは説明しました。「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく1回きりしか起こりえないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。そういうときには、あとにもさきにもありえないような事態が起こることになるんだよ。だがざんねんながら、人間はたいていその瞬間を利用することを知らない。だから星の時間は気がつかれないままに過ぎさってしまうことが多いのだ。けれどもし気がつく人がだれかいれば、そういうときには世の中に大きなことが起こるのだ。」(193-194)

「・・・時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、いわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を 聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間をかんじとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。・・・」(211)

 ・・・とつぜんモモはさとりました。これらのことばすべて、彼女に語りかけられたものなのです!全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となって彼女のほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!(218)

 モモは時間の国で体験したことを友達に話してあげたくなるが、マイスター・ホラに「ほんとうにそうしたいのなら、待つこともできなくてはいけないね。」言葉が熟しきるまで、モモは待たなくていけないと言われる。

 モモと同じく、私が冬から春への移行に体験したさまざまな不可思議な出来事も、今、語れるものではない。モモとは少し違うのだけどね。ただ、驚いたことに、モモが時間の国で体験する以上のすごい体験をいろいろしていて、いつか、ここらの体験を語れるときがきたらいいなと思う。何というか、まだ信じられないことが多すぎちゃって。

 最近、変な夢は、見なくなったと思うけど、やっぱり時間の感覚はすごくおかしい。モモにもあるように、でもこれって後遺症とかそういうんじゃなくて、時間というものの体質とは、そんなもんなのかな。

 きょうは、薄暗い空の中に、船が1つ浮かんでいて、そこには何と1組のカップルが仲良く船にのっていたのです。高砂船みたいな雰囲気だったから、尚更びっくり。幻覚なのかなあ。時間がたって、夕ご飯を食べたあと、近所の猫に、鰆(さわら)を与えにいった。猫たちは、速攻、鰆を突っつき始めてのどをならしてむせながら喜んでいる。春だぜ、えさやり姉さん!とじろっと見られたよ。猫たちをながめたあと、さっき出ていた高砂船の空の場所を確認すると、そこにはお馬さんがひひーんと登場していました。いやだ、次は馬ですか。???まったくもって、わけわからないや。
 病院で確認したんだけど、もう幻覚がでるような強い薬は飲んでいないでしょ!みたいに言われて、ううむ、なんだろなあ・・・

 ねじまき鳥たちは相変わらずギーギーギィーギィー。桜が散る前まで勝負にでろよ!みたいな具合に鳴いているわけです。桜はほとんど散ってしまっている。とりあえず、冬が終わったことだけで、おめでたいじゃないか。それにいまは、モモ=ピーチ・モードheart01
Momo

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はじめまして。こんばんわ。

神様のボートは黄色でした。あえていうなら、西の色。春の色とはちがうんだよね。

はじめまして。こんばんわ。白いぴたぴたシャツにはゴールドのスパンコールがついていて、黒いニットにミニスカにクロタイツにプーティーの女性は、かわかみみえこさんでした。あえてひらがなで表記。ナイスバディ。

愛きょうがあって愛くるしい。サイン会は、ほとんどが男性陣で、しかも、石原慎太郎世代なんかもいたりしてびっくりしました。え?うそ?この人の作品って、男の人にうける?みたいに@六本木という世相かもしれませんが、その世相は、三浦しをんや桐野さん、栗原はるみ、カンサンジュンなんかと非対称的なものでした。あえていうなら、同世代の女性は、ほとんどいない。わたしくらいかなあ?平野さんのときにいるようなオバチャン世相もナッシング。

これって、夜の街にむらがった男性がほとんど?これは違う。そう思って、これは引き下がるか悩んだほどです。なんというか少し自分は、違う感じっていうの?なぜって、男たちってのが、まるでホストのお姉ちゃんを一生懸命、もう何せと指名して群がっているひとらみたいな感じです。ミュージシャンも結構いたと思う。ライブがどうのとか、そっちの話が結構きこえた。おそらく、完全に男うけするタイプです。ナイスバディにアイドル顔で知性を漂わせていれば、アイドルとも違うのだけど、おたくたちも含めて、その世相は少し統計的にとれるものではありませんでした。これが六本木なのだろうか。ぎりぎり40代の女性がちらっといるくらい。ほとんど8割が男。しかも、ばらっばら。気紛れなのか、何なのか、わからない。紀伊国屋新宿でみるような、何かしらの法則は、ここではあてはまらない。

おもしろいかっこをしたミュージシャンやら、バーコード頭のつるつるおじいさん・・・・・平野啓一郎さんのときともちょっと違って、オバハンは皆無だったように思う。みえこさん、オバサンに鋭いからなw(作品をよめばわかりますよ)しかしながら、みえこさんの仕立てた一人称に男性陣が寄り添うのかと、その世相をみていると、驚きというのもありました。

みえこさんは、ひとりひとり。ていねいに。

三浦しをんにみるような嫌悪感とは反対の親近感がわきました。ああ、このひと、いい。いいよ。いい空気がただよっている。ちょっとだけなんとなく同じ臭いがする。そう思いました。彼女のほうが何枚もうわてですが、それは、友人に感じる親近感のようなものでした。でも、栗原はるみほどでもないし、カンサンジュンほどしれっとしてない。しかも、いいな、その突っ込み。ああ、こういうサービス精神のある作家、いままで出会ったことがないなあ。

はじめまして。こんばんわ。どっちかっていうと、アルトボイスなんだけど、ちょっとだけそこに色気をエッセンスで加えたような声をしていました。大阪弁なのかなあと、耳をだんぼにすると、最初は標準語なのですが、だんだん大阪弁になっている?ふかわりょうみたいな頭のいでたちをした男性を例にとるとこんなかんじ。

みえこさん:はじめまして。こんばんわ。わあ髪の毛きれいですね。
ふかわりょう似:いやあ、どうも。髪の毛をてれながらなでる。
みえこさん:すてきですよ。いいですね。
ふかわりょう似:いやぼくさ、トリートメントーがうんちゃらかんちゃら・・・・それはそうと、ライブのほう・・・・なんちゃらかんちゃら(音楽系のひとらしい)
盛り上がる:::::

こんな調子でして、それじゃあ、次のバーコードにも頭の毛を突っ込むのかと注視すると、こんどは名前について突っ込んでたかな。そりゃそうだよ、あら、すてきなバーコードヘアなんて突っ込めないよなあ。ところどころ、耳をだんぼにすると、おなかをかかえて笑うような会話っていうか、やりとりもあったほど。

あとは、みえこさんは、突っ込まれたりもしてたな。え????なぬ?歯のおぐあいはいかがですか?って突っ込まれていましたが、いや、ほんとに歯がどうかしたの?この小説の歯と関係有るの?その突っ込みをしたひとは、歯医者さんのような雰囲気をしていました。それから歯ーってなぜのびるとか。親戚たちにもそれ言われてさあ@と軽くかわしていた。うまいな、この人。しかも、それも全部、あいきょう。

@@@@@@@@@@

さてさて、ようやく、我が輩の番です。バナナボードの私は、女たちの書棚をみるほうに、その後、夢中で、突っ込みだとか、ぼけの展開は、大笑いしてから、これは失礼だとおもってひっこむことにしたのだ。

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はじめまして、こんばんわ。
みえこさん:なんだか春みたいだな、もこもこしているのがいいなあ。春ですね。
***白いニットの上に黄色のセーターだったもんで、それが春っぽかったと思われた。一応、ピンヒールはいていたから、それなりに、ちゃんとした格好になっていたはずですが@@@@
我が輩:いや、あはは、春だなんて。寒いですよ。え?もこもこ?(ナイス突っ込み。ふかわりょうではないけど、ここで、首にまきつけているもこもこに手を当てる。まいったなあ。この突っ込み)あはは。思わず失笑:::::ことばを探す:::沈黙+++++
・・・・・・・それはそうと、乳と卵、ちょっとよかったでーす。
みえこさん:ちょっとって?
我が輩:あはは。
恐らく、みえこさんは、ちょっとっていうことばをスモールと解釈したのだ。
我が輩:いえいえ、大ヒット、つぼに命中::::もごもごと::::失笑。
花束をもぞもぞとさせて、これ、実は、奇数なんです。奇数。あはは。
みえこさん:わあ、嬉しい。
我が輩:おめでとうございます。
みえこさん:(なんやろ?おめでとうって?)一瞬、とまどったふうに思えました。
 ああ、そうそう、授賞式のときの花、一気に枯れちゃったんだあ@
我が輩:あああ、よかった、やっとつながったと一安心しているところ::::
みえこさんサインをきちっとすませてと。
我が輩のオーダー。ふかわりょう似のミュージシャンに書いていた似顔絵をオーダー。ああ、はい、あれね。書けるかなあ。ってことで、似顔絵を描いてくれました。あはは、これってさ、いやだ法令線がはいってるかなあ?みえこさんの似顔絵なんだかわたしのなんだか@@@@

突っ込みしてくれるひとって、いままでひとりもいなかったなあ。ほとんどが、じっとだまっている感じ。友達感覚っていうのかフレンドリーにしてくれたのか、これも全部あいきょう。天性なのかな。たいがいにおいて、ほとんど、無言で通り過ぎるもんだけど、いいな、こののり。

女たちの棚の人とは、一線を画した新人類になるのだろうけど、時代は、結構なところにきて何よりです。しかし、なんとはなしに、よしもとばななの黄金の女たち、たとえば、川上さんというのは川上弘美だよなとか、なら、みえこさんとしよう、こっちは、新人類でも、カテゴリー分けできない人がまた出てきたみたいな。

そうそう、握手のとき、みえこさん。
つめたー
と、つぶやきました。
ああ、ばれてる。寒い女なんだよ。そうそう、神様のボートがちょっと立ち寄っただけでさ。しかしながら、この冷たさ、自分の体の寒さですが、まさか、ここまで、これほどまで、自分の手がここまで冷たくなっているとは、みえこさんのあたたかい手を握るまで気がつかなかったよ。

その手の温もりは、大江健三郎と栗原はるみと平野さんを足し算して割った温かさだったと思います。でも、もっと、そのなかには、過去にあったひとたちの何人かの顔が思い出されました。しかし、ここまで愛きょうのある人はいままでまったくいなかったのは事実。それから、みえこさんにつめたーと一言言われてしまったのだけど(我が輩の手の温度です)完全に、いま、ほんとうに寒い体をしている。これは、冬の寒さだから、時期が来ないとあたためられないよ、そうきちんと答えたいところでしたが、わたしの次にあらわれた40代の女性が、ガーベラを中心にしたすごい花束をかかえていて、なんとなく、すぐその場をあとにしてしまった。

空気だよ、空気、東南の空気だった。神様のボートは、もしかすると、東南に向かっているサインかもしれないな。だし、握手したとき、みえこさんは、東南を昇っている太陽の方角の人だと思いました。この本ね、めくると、真っ赤な色をしています。

これから、どんな変貌を見せてくれるか、楽しみです。どちらかというと、ライブよりも、文字で、文学のほうで勝負してほしい。次はレコード大賞でね、なんて突っ込みも聞こえましたが、路線はどうなさるのでしょう。

突っ込みとぼけと@@@ああ、いいな、大阪って、こういう愛きょうのある突っ込みだとか、まるでお笑いの世界のコントのようで、何か違うな。いつしか、我が輩は、自分自身すらも制御する方法を、アクションゼロというのを身に着けてしまって、その突っ込みにさえまともに答えられない自分になっていたwなんだかそれが少しイタイ。

次の本については、未定だって言っていましたが、みえこさん、これからの御活躍をお祈りしています。あえて、ひらがな表記にしてみた。

ハーってね、her?司馬遼太郎から、こっちにいくと、テンション合わせがたいへんですが、いいな、みえこさん@好きだな、嫌いじゃない、わたしは、わかる口です、このモード。歯のほうは、ところどころですけど、またテンションが戻ったらきちんと読んでみようと思う。もっともっと、深く、ほら、その泣き笑いが、もっと違う表情に絶対にいつかなる。

いまのところ、泣き笑いモード?路線はどうなるかね?
はじめまして。こんばんわ。

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六本木の帰りは、大江戸線に乗って帰りました。いろんなひとたちの、いままで出会ってきたひとたち、素通りしてしまったひとたち、次々にフラッシュバックしていき、凍り付いた氷がぐんと溶けていくのを感じました。神様のボートは方向をしらないうちにきちんと操作している。あんまり深すぎるのもきっとダメ、だから、ここらがいい、みえこさんくらい。六本木まできて、なぜ、タオルを仕入れていたのだろう。その意味を、あとで理解することになったのだから。たぶん、はじめましての地点に、いま、ようやく振り出しってところまできた。

それらは、ようやくというところですが、これについての答えがきちんと出せるまで六本木にボートは止まらないだろう、きっと。神様のボートは、ひょんなところで、人と会わせてくれたことで、その忘れていたものをきちんと結ぶということを果たしてくれた。みえこさんは、きっかけに過ぎないのだけど、とても不思議な一日だった。
Miekosan


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青山ブックセンター

神様のボートは、六本木にある青山ブックセンターで小休止。

あくまでもついでです。なんせ予定は未定ですから。

六本木駅からすぐの青山ブックセンターは、小規模な店舗です。

いままで何とはなしに六本木にくるたびに寄っていましたが、紀伊国屋新宿店が自分のなかでのひとつの本屋さんの目安なので、あまりにも小さすぎます。

@@@
書店に入ると、まずは、ジョンレノンとオノヨーコが抱き合ったマガジンにくぎづけ。そのあと、結局、本をいろいろ物色、フィルター制限中なので、また自分との約束を破ってしまいましたが、おもにマガジンということで・・・。やっぱり本屋さんはいいな。

本を捨てて花を買うということを、最近の生活のモットーにしていたので(本はなるべく買わない方針へ)結局、いくつか本を買ってしまいました。黒い花柄の秘密の手帳とやらも仕入れました。ひとめぼれしたのですheart

それから、わたくしりついんはーまい~かわかみみえこさんんほうへもふーらりと。みえこさん、おもしろいタイトルで本を書いていたんだね。ある人が、これはイカンと酷評していたのだけど、結局、サイン会もふーらりと。
Ao


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司馬遼太郎

ここのところ本は司馬遼太郎を読んでいる。

すごくバランスがいいな。大西巨人がごつごつしていた男性世界のものなら、司馬遼太郎もそうなのだけど、巨人ほどでもなく、それよりバランスがいい。何か真ん中に一本がっちりした線が通っているのだ。下手をすれば、あれ、何か教科書に書かれているような文章みたいだなと思わなくもないけれども、それでもいいな、このバランス感覚だよ。

この調子だと、司馬遼太郎は恐らくお気に入りの作家にランクインしてしまうだろう。好きだな、こういう文章を書く人が。いまの自分にはひとかけらもない、背中の筋の通ったまっすぐした、何か違う角度できちんと文章が組み立てられているところ。

大西巨人が、ううん、わからないや・・・となってしまうのと違って、司馬遼太郎はバランスがいいもんだから、そういう拒否感みたいな、拒絶しているというか(読者に対してね)そういうのがない。バランスがいいってこれだよなあ。ううん。これだよ。理解するとかしないとか、そういう次元ではない生理的な部分だね。これについては、『にごりえ』樋口一葉を読んだとき、どうやって説明していいか少し悩んでいたのだが、文章を音でたとえるなら、一葉のほうは、女にしか出せないリズム感と、女が演出するミュージカルのような世界(例を出すと宝塚)だが、司馬遼太郎のほうは、バリトンの音色ばばんばん出てくるオーケストラーみたいな、低音ががっちりしているせいで、調和が骨太になった調合のとれたバランス感があり、やっぱり、何か根本的な音が違うのだ。つまり、これは、好き嫌いとか、そういうものより、そのときのテンションももちろん関係していて、だから生理的なレベルで何となく司馬遼太郎を好んで読みたい時期みたいである。

司馬遼太郎は連作のがっちりしたのが多く、わあ、そうかってな具合で、まだまだ読んでいない本がたくさんあるなchickそう思うと何か楽しみ。未読本があるっていいことだよ。


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乳と卵

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文藝春秋、2008.3.

『乳と卵(ちちとらん)』川上末映子
 第138回下半期 芥川賞

先日、出版社の友人と語らふ機会があり、最近、文学界のほうはどうよ、君の意見を聞かせてくれないか、どう思うかい?みたいなことをおしゃべりし、今実はさ、闇上がっていてフィルター制限中だから、わからないっていうのか、本は読まないようになるべく注意しているとことかこたえていて、ただ、最近、どうなのよ、出版界のほうはどうよ?あなたはどうよ?がんばっとるの?たいへんなまんま?そこで友人がまったく嘆いており、困ったもんだよ、最近は、どうなっちゃっているのかな、芥川賞もイッパツヤみたいなかんじで、しゃぼんだまみたいに消えていくのが通常で、まったくもって威勢がないもんだね、ほんとに・・・暗くなっているわけでしたが、コメントができずにいたわけで、なんとなく、そうだなあ、どうだなあということすら言えなく、なんとなく申し訳ない気持も沸いて参りまして、とりあえず、発売されたばかりの文藝春秋、2008.3月号を読んでみるになったしだいでありますが、まずは芥川賞の『乳と卵』を読んでみると、わあ、結構、いけてるじゃああーりませんか、いいよ、いいじゃない、まあそれがぶっちゃけた、自分自身の個人的見解。友人がいうに、困ったことは、担当した、さりとて、それが持続するかどうなのか、そういった、一髪デビューですい星のごとしということについてですが、そんなさ、まあ長い目でみようや、いいよすい星だってさ、いいじゃあーりませんか、ただ、友人にいってあげようと思う、ダイジョウブダヨ、まだまだ、ダイジョウブ、そんなテンションのことをいってあげませうと思っていた矢先でありました。

 『乳と卵』は、まず、構成がいい。樋口一葉の「たけくらべ」をオマージュが隠されていて、作品そのものを、語り手となるわたし(樋口一葉=作者=川上末映子=叔母の目線)距離がまず成功の要因に思える。主な登場人物は、女、3人、語り手=わたし=叔母、その姉である巻子、巻子の子供、卵子である緑子である。
 物語は、○←卵子の記号?からスタート。これしゃれてるじゃんか。いいな、このマークが。

○ 卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです(352)
 
 最初、この○っていうのは、あれ、これは満月の○なのか?満ちたこと、○サイン?あれ、卵?ん?月経のこと?女性の周期?何と当惑しかけたが、卵子の記号のようでして、つまりですね、これは、○卵子、つまり卵細胞ではなく、無精卵でもなく、精子と合体して、生物となった子供、ここでの重要パーツ、タイトルにある、卵の部分を担う、緑子の部分ってところね。(←わかりやすいね)翻訳がだからいらないんだよ、いいね、こういう親切さは、まれだよ、いい。

 まず、問題は、女性性、ジェンダーってことになるのだけれども、かんぺきに男性ってのを排除して、とりあえず、ならば、その精子ってのは、いいのよ、まずはいいの、無生物でも無精卵でもなんでもない、生物としてでてきた緑子に、それは、役割をということなのかね。ううん、悲劇の緑子、卵子と精子が勝手に合体して、それで、出てきてしまったのならば、それは、いわゆる、人間であり、生物であり、人格をもった1人の人間であります。

 あとは、タイトル勝ちってとこもあるね、適当にやっているわけじゃないんだね、卵子=○の描写からはじまり、乳の描写で終わる。奔放そうな大阪弁でありながら、絶対にそうではなく、抑制され、計算されて、この小説は出来上がっているのである。これ、まるで現代版の樋口一葉「たけくらべ」の息遣いとよくにているのであーります。それから、文体についてだが、息が長くなっていて句読点、オチハドコダーイというところも、まったくもって一葉さんじゃあーりませんか。ただし、樋口一葉の文庫を手に取ってみればわかるように、「たけくらべ」ひとつとっても現代口語訳=翻訳なしに、解読はもはや現代では不可能となっているのである。そんななかで、この作品とこれば、まるで、これは、樋口一葉さん、現代バージョンと喝采をあびてもおかしくありまへん。「たけくらべ」で主要な人物である美登利は、ここでいう緑子、卵、○の部分をになっていて、大巻は巻子、それから、語り手である夏は、ここでいう叔母になるわけですが、どうでしょうか。 句読点について、翻訳したものをみるとて、これ、樋口さんはどこらへんをどう思っているのか、やたらとブレスはながいですよ。つまり落としたがらないってこれですよ、では、さてさて、落とさない文章とはどんなものなのか、みてみましょう。内容を落とさないという問題も出てくるわけですが、ここについて落とさないとは、句読点、つまり○、卵子の輩出、つまり月経で、月に卵が1つしかでてこない、そんな勢いで、句読点の○をなるべく落としてこないのです、意識的にか、卵子を意識してなのか。樋口さんがそうならば、こちらもしかり。わたしは、なるべく、落としたい派でして、○はともかく、てん、「、」こっちはないとパソコンならばみにくいでしょ?デモ本ならいいでせう。

 巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年も前に別れているために、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したこともなければ巻子が会わせたという話も聞かぬから、父親の何らいっさいを知らんまま、まあそれがどうということもないけれども、そういうわけでわれわれは今現在同じ苗字を名のっていて、ふだんは大阪に住むこの母子は、この夏の三日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります。(354)

 巻子の年齢は39歳で、緑子は、小学校6年生で、周りの女子は生理がきたり、おっぱい(乳)がふくらんだりと、女子でも複雑な時期で、お母さんは豊胸手術のことで頭がいっぱい。わたしが卵子なら、お母さんは乳、めさんこ、めんどい、お母さん。卵子と精子が勝手に受精して、わたしがうまれて、食べて、いっぱいいっぱいで生活して、体はどんどん変化していって、おっぱいはしだいにふくらんできて、あそこからは血が出て来て、まったくもって、生きるっておかしなことばっかり。わたしは、その発生すらを、卵細胞に受精した精子と卵子の掛け合わせすらを、たぶん、否定しているのだと思う。こんな苦しい思いをしてるんなら、わたしのために、おっぱいがぺたんこになって、豊胸をしなきゃならないのなら、お母さんはわたしなんて生まなければよかった、悪いのは精子と卵子、わたしはおとなになんかなりたくない。○=卵子については、おおむね、こんなテンション。
 乳を担う巻子は、豊胸ばかりに夢中で、哲学的なことはそっちらけといった印象でありまして、ほら乳首がアメリカンチェリー色だとか、ぺったんこだとか、乳ばかりにこだわりをみせていて、まるで魔物にとりつかれたように、馬鹿一色のノーテンキ女といった感じではあるのですが、たとえば乳の描写1つにしても、その乳をリアルに描き、色がどうの、形がどうの、女が母になる、そのリアルさを乳をリアルに描写することできっちり描き、そして、その乳はいったいどこへどうなっていくのか、最後にはふうせんはしぼんで、ぺったんこ、まるで、ぺったんこのへんなただの物体、それは、ただのゴミでしかないわけで、そういった辛辣な描写を容赦なくできるのは、3人称で巻子が描写されているところにあり、いわゆるきっちりとした乳なり卵なりの描写が必要なわけで、そこを描かずどうなるかというわけで、男の出る幕はここにはまったくなし。じゃあ、そのパーツをしっかりみていこうや、ならば、さりとて、豊胸について、男はどうとか、ジェンダー論が一部差し込まれたりもするが、女性性の、いえ、乳の、女の胸に強制的に昔からあてがわれた歴史的過去や社会的役割というところになるわけですが、ただ乳といっても、それそのものをどのようにとらえるべきか。まずは、ここを、きちっと、リアルに演出してみよう。

 長めのブレスで、そこに躍動的な大阪弁を挿入して饒舌な文体がとても巧みで、文章がまるで何かの音楽のように、すとーんと読む人のなかに入っていく、いいリズムの文体である。無駄で奔放な大阪弁のコントみたいなのとはちょっとちがくて、無駄もなくきちんと制御されたなかで、これは、下手すると、計算された、お笑い芸人のノリのような部分もなくもないのだが、構成そのものも、きちんと計算されていて、まったく、悪くないのだ。ただの笑いじゃなく、ただの突っ込みでもなく、とても切ない、根元的なところでぎりぎりのところで小説が成っているのだ。

 卵をぶつけあうシーンは、これは暗喩にしては、ちょっとこけてるんではないかと思うが、これも許容範囲。卵は、中身は白いのと黄色いのだけで、成長したもののみが、ひよっことなるわけで、卵そのものは、何ら、生物として機能しないわけで、ぶっつけて落ちて捨てられようが、月経となって流れてくる無精卵のごとし、意味のないものでありまして、緑子は、「お母さんは、ほんまのことゆうてよ」と迫るわけで・・・・
 ほんまのこと、ほんともくそもないのである。

 精子はどこで出てくるんかよ?そう紐解けば、出てくるのは、精子となった緑子の父さんの、哲学的でもあり、親として責任あいまいな、この1描写のみでございます。でも、これも、冒頭の描写同様に、生命の本質、結構、するどい哲学的なところを突いているではありまへんか。

 あの人な、云うで、『子どもが』出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』(377-378)


 生きるということ、発生について、どこからきて、どこへ向かうのか。人間の存在とはいったい。そこを凝視してみるなら、自分が、いま、ここに存在しているということのほんとうの意味を、その哲学命題を、自分なりに突き詰めていくとき、答えはどこへ行き着くのか。精子と卵子、遺伝子、それだけではないということなのか。いま、ここに自分がいること、生きていること、そして、いつか、着陸して死ななくてはいけないこと、そこらへん、あんまりつきつめていくと、答を出そうとするならば、待ち構えている狂気になるだろう。歴史をひもといても、文学者たちをみても、これは証明される。だから、これ、緑子がほしい答えについて、ほんとうの答はだれにもだせない。精子にも卵子にも、彼ら自身もどこからきて、どこへいくか、わかっていない。だけれども、ここで、絶対的に確かなことは、いま、ここにこうやって、よくわからんけども、ここに自分が生きているということ。いつか訪れる死が存在の過誤であるだろう、闇への回帰だとしても、ほんとうのことはわからない。これは人間生命の哲学的な命題になるだろう。でも、この作品では、狂気とか、どうとか、ほんとうだとか語らない、さらっと、ただ単に、ありのまま、単調な東京弁(大阪弁ではないのは、ここのみ)で、1センテンス出てくるだけ。ううん、でも、これが答えだよ、いいとこついている。そして、問いつめない、闇がどうとか、狂気までいかない、泣きながら、そうやって、じたばたしながら、おもしろおかしく、女3人の、ひと夏の2泊3日のどたばた劇が描写されて(主に巻子の豊胸=乳がメインテーマ)でそれとかなりいい味を出しているのが、大事なパーツ、○←卵子、巻子の娘、緑子の視点からみたあれこれ、それから抑制された、わたし自身の3つの視点でつむがれているわけなのですが、なんだか、とても、めさんこ、めんこい、それで艶があってあやしくて、これは、すごい才能ではありまへんかい。というか、はっきりいっておもしろくしすぎの気もする。ひゃあ、ここまできたかいな、でも、それが、つきつめて狂気って部分まで到達していない、でも、結構、あぶないところを、さらっと突いている。
 ほんとうのことは、冒頭にあるように、精子と卵子、そしてわたしがいる、わたしが生まれたという事実だけなのだ。そして、それは、まぎれもなく、人為でもなんでもなく、だれのせいでもないわけだ。
 わたし自身も、この哲学的な答えにいきつくのに、人生の半分を費やしてしまったが、これしかないのである。いくらセックスをしてかけあわせようて、精子と卵子がきちんと受精するなぞという確率のようなものは、まったくもって意味のないもので、バースコントロールということばがあるが、そうではなく、つまり、精子と卵子、緑子の発生起原は、それじゃあいずこから、ほんとうことってどれよというと、かけあわせうんぬんより、人為という言葉ではかたされないというわけである。

 この物語は、母娘の物語であり、チチトラン(父をとったところ)女性性だけで、ふんどしをとっているところだけで語られていて、どこにもオチがないのである。おとしているのは、抑制のきいた、あの意味深なお父さんの哲学的な言葉のみである。

 母と娘の描写のところで、花火をしようか、どないしようかってところで、5千円札が出てくるんだけど、わあ出てきた、ほら1マイ、わ、また出た、よし2枚、いいぞ、ここらになると母娘の心が通い出して、ほろりとさせます。5千円の価値って、現代は、女が、お札の顔になっている時代でございまして、よし、その調子、もう1枚いこうか、さあ、どうなるか、ガンバレ!樋口一葉ってな具合にでして、たとえ、ここで一万円册の顔になれなくたって、5千円が2枚そろえてみると、乳と卵、たとえば、乳が2つ、卵が2つ、ほら4つ、わあすごい、女のパーツが、乳と卵、二つそろえば、絶対に、男に並べる時代だし、いやむしろ、女は男の従属物なんかじゃない。女は産む機械なんかでもなく、男の従属物として生きていくだけでもない、そんな時代なんだよ、しかしながら、時代はそうとうて、悲しいことに、これだけは太古の昔から変わらない事実というものは、卵子というのは精子あっての卵子となるけどってな具合。
 物語の最後は、乳の泣き笑いの描写で終わっている。ドタバタコントが、きちっと、それから描写もきちっとあって、ほら、豊胸、花火、東京、卵のぶつけあい、おっぱいぽろん、いろいろ出てきたけれども、最後は、さて豊胸はどうなったかおちていなくて・・・それでいい、ずっとそのまんま、まだ着地しないで飛んでいようよ、それが生きるということ。

 わたしは背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐに断ち、少し動いて顔以外の全部を鏡に映してみた。瞬きもせずにじっと見た。真ん中には胸があった。巻子のものとはそれほど変わらぬちょっとした膨らみがそこにあって、先には茶色く粒だった乳首があって、泣き笑いのようだった・・・・どこから来てどこに行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡の中でぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった。<了>(399)

 泣き笑いしている身体ってなんぞや。いやいや、この作品は、言葉と、女性の身体と感情の間をきちんと右往左往しながら、それでも、どんなことがあっても、人はとりあえず生きていく、その姿は、泣きながら、でも、笑っている、男がつらいよなら、女がつらいよだってありーの。

 ただ、男性からみた意見は、冷ややかなのかなあ。ここんとこ、たとえば、豊胸だとか乳だとか、そんなのナンダヨみたいな勢い?男性性が女性性を排除しよってのか?そういうわけではないんだと思うけど、 石原慎太郎は、例の如し、薄くて軽い、『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファが伝わってこない。前回の歯と同じだ。一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。(340-341) アハハ。けど、石原さんちゃんと読んでなさすぎ、疲れているのはわかるけど(作品に全部目を通すわけですから)この作品で豊胸手術のためとみせかけているけど、実は、東京に出て来た主要因は精子となった緑子の父とどうとかっていうのがほんとうで、ほんとうのことは、ここでは語られぬまま、つまり豊胸にみせかけた上京なだけでして、それにしても、これ、本気で酷評すぎる。ほかのひとらは、大体においてOKサイン。慎太郎さんぐらい、こんな意見出さぬものならってことなのかねー、どうなっちまったか(出版社のひとも言っていたことだが)でもまあ、結果オーライですよ。よかったよ、これが落とせて!
 
 乳と卵、女にしかない、特別なパーツとなるわけです。そこんとこ見てこう、とりあえず、パーツを1つずつスポットをあててみる。1つのパーツをどんどんそろえると、やがて、それは女となり人体となる。女性性、ジェンダー、女性の役割となるならば、この2つの要素が絶対的なパーツとなりまして、だから、みんな、おっぱいがどうのと、ぷるぷるぷるとやっていて、しかしながら、ここになにをつめこもうってのか、人為でそれはコントロールしてしまえる時代になっていて、はてはて、その膨らんだ乳、豊胸、それらは、いったい全体ナニモノナノカ、これね、巻子は、馬鹿な女みたいで、それで、内容だって、まるでコントみているような、こんなポップにみせかけて、笑わしてくれて、でも、ほろりとさせてくれて、まったくもって、このテーマで書いてくれて、でも根元的なところをちゃんと扱っていて、それから、ここで使われている大阪弁について、ちょっととっつきにくかったのだけど、まったくもって、悪くないし、嫌悪感もない、むしろいい、いいですよ、馬鹿でなんも考えていなくて、でも、たぶん、巻子は女の部分にこだわっていて、とりあえず、母としての乳ではなく、豊胸ってところでおとしたいわけですが、どっちが勝つか、この心理戦・・・・ってのが問題ではなく、まずまず、女はつらいんだよね、いや、中途半端なんだよね、彼女の場合はね、精子となった男はとっちらけとなれば、まずは、悲劇ですよ、女性は母となり、しぼむ、でも、ふくらませる、余計な御世話だろうけれど、しぼんでしまった巻子さんのおっぱいがその後ちゃんと膨らんでほしいなという心配や、たとえば、そのおっぱいが、次ぎに現れた男の獲物になろうものもおかまいなしではあるし、その膨らんだおっぱいがどのように機能するとか別ですよ、その後の緑子の成長も気になってしまって、まったくもって、とりこまれてしまって、ううん、ここで登場してくる人物達がなんだかとても愛くるしいくらいでして、病んでいるのに、でも、笑っている、からっとしている、そして生きている、文章の力がそうさせている。

 それからですね、言葉は一葉さんの時代とは、まったくもって違ってしまっているし、変化していくし時代とともに変わってくるんだよ、大阪弁だっていいよ、そして、自分なりの言葉でいい、たとえ、ラングとパロールの往き来の途上だとしてもいい、青が青くなくたって、青いってことはどういうことなのか、言葉の可能性はそれではどうなるのか、だめなのか、いや、むしろ、言葉あっての世界なのか、どっちなのだろう、この作品を読み終わって、言葉の可能性に1票投じようと思った。

 受賞のことば 子どものころ、青いという字をじっと見て、ちっとも青くないことに驚いた。はっとして、わあ。あたりをぐるりと見渡せば言葉は、物は、考えは、ほとんどそんな具合であるのだから、いったいこれは何だろう。言葉とそれが指し示すものとのあいだに横たわる断絶のようなものが、とてもいらいらするし、大変だし、それでもやぱり何もかもがそれだけでいいと思ってしまえるくらいにそれは時に鮮やかに発光するのだから、言葉というのはたまらない。(略)
 読む人と書いた人、そしてその真ん中にある文章の、このみっつにとって絶対的に美しい結ぼれの場所が、気の遠くなるようなこの運動の途上にはきっとあって、それが見える。どんなことがあってもそこに行きたい。

彼女の今後を見守りたいと思います。
日大の永井教授つながりで、もしかして、近日、ふつうに会えるんだったかなあ。ワタシハ哲学だの文学だのとりあえずぶっとばした世界で生きていくんだよと自分のなかでは思っているところなんだったっけな、でも、オモシロイモンデ、ほんとに、ほんとに、世の中は思ったよりもとてもセマイんだね。やあ、わあ、びっくり、元気してた?とかって、ふつうに出会う日も近いんじゃないかなっていうくらい、世の中はとてもセマイ。どこかで、だれかと、ひょんなところで、キモチワルイケドつながっている、それが縁というもの、ワタシハ、今回、この作品で彼女がとても好きになったし、彼女のことを応援したいし、それからワタシモガンバロウト思ったし、ナニヲッテイウトおかしいんだけど、生きるということ、女性であること、でも、しんどいけど、泣きながら笑って生きていくこと、言葉の力を信じることwink

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モモ

Momo
昨年読んだ本でのベスト1

ミヒャエル・エンデ『モモ』。

こんな美しい物語があったとは。
「時間」とは何なのか・・・・それを、難しい言葉ではなくファンタジーという手法で伝えている。

灰色の世界・・・時間どろぼうに時間を盗まれた大都会は、灰色の東京の姿を映し出している。私が世界を灰色だと思ったのは、時間泥棒の比喩によく似ている。

時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。  なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。(本文抜萃)

ほんとうにそうしたいのなら、待つこともできなくてはいけないね。

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先日、昨年の課題図書、贈られてきた本をアップしたのだが、固有名詞のヒットが驚くほどあったので、削除いたしました。

私はいままで、なんで、インターネットで自分がよい感想をもたなかったものについて書いてはいけないのか、よくわかりませんでしたが、たぶん、それは、悪いものをひきつけてしまうからだと思う。現に、そのキーワードで、本サイト、++ 春夏秋冬 ++ に飛んできた人が、●●人もいたのにはがくがくぷるぷる。恐ろしい。お願いだから、その周辺人物がヒットさせたことではないことを祈ります。その本についてのコメントは、直接、ダイレクトに公表しない形で本人に送ります。

このブログに関しては、マイナスの要素を感じることは、ことごとく排除していこうと思う。インターネットが「検索ワード」で知り合う世界と規定するなら、私は自分自身でその悪い検索ワードで、誰かと知り合うつもりはない。だから、自分がよしと思わない人物についての固有名も本も映画についても今後いっさい書かない方針でいこうと思う。ということで、モモでばんかいしてみた。

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実は、今月の25日に、まだ給料の振り込み日がるし、そのときに、君のブログをはんっけんしてね。Y先生について、君は、馬鹿と罵っていたね!なんて、言われて、給料がもらえなくなることだってあるじゃない?なんていうか、灰色の世界の怖さを、改めて痛感しているきょうこのごろ。がくがくぷるぷる(><)

私は悪いものを、これからひきつけないで、明るいもの、よいもの、プラスのもののみひきつけて生きていくつもりです。人生には、自分と合わないものにまで無理にあわす時間はないのです。

いま、私がいちばん大事だと思うのは、人生の時間だから。

そうだ、このブログの最初と末尾に+を4つ付けたのは、いいものが4つ、四方八方に広がっていくような発信の仕方をするためだと自分で決めたはずだったのを忘れました。なにげで、結構、考えたんだ。笑。でも、それを忘れていたんだけど、これから気を付けようと思う。どうか、Yさんのワードで来た人は、おひきとりください。まあみるのは自由ですが。本人とか秘書とかみたとしても、そんな貴重な時間を、くだらないことを書いている人のサイトをみるために費やす時間はないわけですからね。えっへん。

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