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2008年2月

ピンクちゃん

2月でピンクちゃんはフィナーレheart
4つ咲きました。死人番号の4でなくて
しあわせの「4」フォーなのかなあ。

エンデの時の花を引用したいとこだが
ここは歌にしたためようと思って少し替え歌。

ピンクちゃん 世界に一つだけの花♪
アマリリスのピンクちゃん
君たちは 一つとして同じものはないから♪
ナンバーワンにならなくてもいいんだよ
君たちは もともと特別な ここだけにしか咲かない花♪

Pinkchan
Lastpink
Pink4last

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アポカリプト君

フリージアの二の舞には絶対にしてはならないので
結局、室内に戻して、器を新しいのに入れ替えてみたよtyphoon

アポカリプト君、2月29日の様子club
229ap

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破壊

春一番が吹いて、庭のフリージアの鉢が倒れた。やっと出ただろう新芽たちがすべて鉢ごと地面に落下して破壊された。不吉なことがあるもんだ、まったく春一番は嫌らしい、やれやれと思っていた翌日、それが起こった。もう1か月もたつのかと思う反面、この1か月は苦しみの日を生きているという感覚が強かった。看護士さんと近況について、その後のことについて話をした。今がいちばん辛い時期でしょうね。でも、この辛い時期は必ず通り過ぎていき、いつかきっと、このことがあったことさえ、そういう感覚さえ忘れていますよ。それから注意事項がいくつかあった。動かなくなった筋肉の動かし方はあたためたときに少しずつリハビリをしましょうということで、話されたことは楽観的なやりとりだったように思う。その後、担当医の敬愛なるナツメドクターと話をして、その楽観的な前述のやりとりがあったせいだろう、これはイージーなことだと思っていた。芥川ドクターとも話をして微妙な時期であること、医学的経過は「待ち」の体勢があって医者が手を付けていいものかという時期と手を打たないといけないときがあると言った。「待ち」の体勢だけで、だめだということがわかるなら、それは「いつ」が最善の時なのか。ナツメドクターはいまからやりましょう、みたいな勢いだったのだけど、いつでもいいですよとも言っていたが最善の時は「いますぐ」という結論だった。
 結局、そういう経緯で緊急手術ということになった。もしかすると、放置していてはいけない一刻を争うということだったのかもしれないし、待ちの体勢に入れないということだったのだろうと思う。私自身に与えられた選択肢はそこにはなかったように思う。
 例によって例のごとく・・・もうこれで絶対に終わりだから。これ以上は、もう無理です。だいぶぼやいていたと思う。看護婦さんは、早急に太い針を突き刺してきた。それは何の合図もないから「ぎゃー」と叫ぶほどの烈しさだった。身体に太い針が突き刺さってきてやれやれと思う暇もなく、次は、冷たい液体が身体に流れ込んでくる感覚がやってきた。じんわりと雪融けがあるなら、その反対、少しずつ海が氷っていくような感覚だ。だんだんそれは激しくなり、少しずつ身体の感覚が鈍っていくようでもある。死んでいくとはこういう感覚なのだろう。その感覚は、生きるという感覚と死ぬという感覚のちょうど狭間にあるようなものかなと思った。酸素ボンベやら痲酔がくっつけられるのは感覚が麻痺したあとからだろうと思っていたが、それがいつだったのかわからない。前回までは、1、2、3ぐらいで意識がぶっとんだのに対して、今回は、その手の罠にはまるものかという気持もあって、その意識がぶっとぶのは少し遅かった。あれ、おかしいですね。入っています?お願いします。そんな手術室でのやりとりを確認して、1、2、3,4、5、6、7・・・このくらいは感覚があったと思う。だいぶ強いのをかけてきたのだろう、自分の意識では操作できる極限のところで感覚がまったくなくなった。
 緊急なことが終えて覚醒したあと、呼吸はできたのだが、喉が痛くて針を突き刺されている感覚があった。器官にどんな管を入れられたのかよくわからないのだが、恐らく左右にガンガンと入れられたのだと思う。声帯の部分と左右の部分が腫れているが即座にわかった。苦しい、喉が痛い、何か突き刺さっていないか確認してほしい。看護婦さんは首をひねっていた。どこも異常がないし、あなたがどう痛いのかわからないという。苦しいから、このままいられない、筋肉注射を1本打ってもらいたかったが、軽い痛みだと思われたのだろう、おなじみの経口薬を3錠と水を手渡されそれを一気飲みした。ぶわっと咽せた。この水が痛に通過するとき痛い、喉に穴が開いていないか、どうなっているのか心配になるが、それは想定内だと言われた。点滴をさされてずっと休んでいたあと芥川ドクターがきたので、センセイ、たまらなく痛いというと、どこがどうどう痛いのか言われるので、どうでもないところに痲酔なしで斬りつけられ、そこに塩水をすり込まれるような痛みといった。ううんというので、前回の呼吸ができなかったのより、吐血して苦しかったときより痛いというと、それはないでしょ、大げさでしょ、君・・と笑いながらかわされてしまった。点滴中に喉がかわいて何度かナースコールをして水をもってきてもらった。やっぱり痛い、水を飲むだけで痛い、そして痛いということを伝えたくても声がうまく出てこないし、声を出すと声帯がふるえてまた痛い、結局その痛いのを逃れるため睡眠薬で眠る方法しかない。
 痛み止めと睡眠薬の2セット。それから、早く復活したい気持があり遭難したときに食べるといいもの、ヘモグロビンの値をあげようとチョコレートを食べるも、ココアが喉につまってむせて苦しい。
 
 数日後、やっと、声が出せるようになった。それでもまだ管が入ったところは少し変だし痛み止めで対処している。大したことではないレベルみたいだが、今のところ、その苦痛指数は今まで体験したことのない、マックスが5だと前回まで評価していたが、それを大幅に上回る感覚だ。

 これ以上の痛みが続くなら、ちゅうちょなくあの世に送る処置をしてほしい!ということをはっきりいったが、それは大げさというものではなく、ハンマーで頭を殴られ続けてずっとそのまま平気でいる人がいるだろかということに等しい。ただ、困ったことに、本当に痛くて苦しいときは、涙は一滴も出てこないから涙で訴えるという手段は使えない。

 苦しいピークの日は睡眠薬と痛み止めで頭がガンガンとハンマーでたたきつけられた感覚で何もしゃべれなかった。その日の明け方、3時ごろ、激しい雨の音で目が覚めた。その雨の音は、母が他界したときと同じ雨の音だったと思い出し涙が出て来てしまった。苦しいときも痛いときも泣かないはずだったのに、もしかすると、やっとここで覚醒したのか。夢だったのか幻覚だったのかわからないけどそれは夢ではなかったようだ。母の死は終わってみるとあっという間で、何か嘘のように思うのだけど、肉体が滅びて屍体になって、魂が抜けてしまった、その日の音が、その魂を証明する音が、母が他界したときの雨の音だった。

 この1週間は、それでもバタバタしていた。この身体で助走しだしたりしていて自分のほうも大変だったが、遠い親戚にあたる人が1人と近所の知り合いが1人、他界した。両方とも葬式に出なかった。驚いたことに2人も動きながら、乗物にのったまま旅だった。(車椅子と自転車)その共通点を知ったとき、ただ単に閃いたというのではなく、人間は肉体を捨てて、ただ違う地点に移行するだけ、移っていくだけなんだというふうに、何かインスピレーションのようなものを感じ、動いただけだよ、みたいにいうと、は?何が?死亡されたんですよと、改めて言われる。ああ、そうか、みたいな。近所の知り合いは、ピンピンコロリと旅だった。老人の平均寿命が高くなってピンピンコロリという言葉は死語であり、問題になった言葉だと聞いていたが、医療の発達と現在の日本の状況をみてみると、ピンピンコロリって少なくなってきたように思う。少しずつ、人間は死んでいく、それが本来の死に方だし、生きて老いて病気をしてそして死ぬ、そういうステップの後に、死があるみたいな、生老病死、という四字熟語だってあったじゃない。少しずつ、景色を変えるだけで、死ぬってことは、特別なことではないという感覚で、ただ、呼吸をした生きた身体がなくなるというのは一抹の淋しさがあるくらい・・・。でも、それは特別なことではない。それよりも、寧ろ、人間は、生きる死ぬの繰り返しで、細胞は日々破壊されているではないか。

 私自身のほうは、数日間、身体はパニックになっていたけれど少しずつ何とか生きるほうに傾いてきている。キリストが手を差し伸べたのだろう、生きるほうへ。ただはっきり言えることは、何かが完全に破壊されてしまったこと。一度きた道は、もう二度と戻らないとい覚悟。これは完全なる破壊だ。私自身はもうすでに何度も死んでいる、しかし、この肉体で死と再生をするのは、もうこれで終わりだという覚悟。

 敬愛なるナツメドクターの掌のなかで、結局、逃げることはできなかったけど、それは何か大きな信頼のようなものはある。声が出てこない数日間、聖母マリアの受胎告知に出てくる人で(聖書)マリアの友人の夫が天使の言葉を信じないために、声を奪われるのだが、なんだか、あの人を思い出しちゃっていた。信じていなかったわけではなく、ただ全面的に未来を信じるというのは、やめていたと思う。

 ナツメ先生と芥川先生にはヨーロッパのチョコレートを捧げた。ナツメドクターは、バレンタインね、と一言。バレンタインって好きな人にあげるチョコレートだけど、あはは、リアクションにこまったので、ただうなずいた。芥川先生は、おう、みたいな感じで医者というかフレンドリーな感じです。ナツメ先生からは、もう犬の臭いがしてこなかった。犬からどうしてと言われそうだが、夏目漱石とキリストの中間にいる人かなみたいな感覚だ。

 痛いときの表現方法は、やはり、言葉で何とか伝えないとならず、ただ、傷みについて説明がほしいと言われればそれなりに頑張ってみるものの、結局はその傷みは、きちんと正確には伝えられないのが真実のようだ。それでも、その痛みを言葉にしてみなくちゃと思うのだけど、ここ数日それがまったく停止状態で、ようやくこれを書いている。いまも続いているが、言葉を何も発しなくてもそれでも生きていけるのだけど、やはり言葉がないと、何も伝えられないじゃないか。ジェスチャーなんかでやろうというものなら、あほかーしゃべろよ、声を出せよみたいなさ。
 
 確実に時が進行していっているわけだが、高島先生には、この3月、4月が、開運だと言われている。昨年もさんざんだったが、今回のもあまりにも酷い。ただ、ここまできて、もうこれ以上、壊れることはないようで、破壊願望も闘争精神も一気になえてしまっていて、もうこれ以上、破壊されるのなら、それは死、完全停止でよろしい。まだまだ人生これからじゃないとよくと言われるのだが、その感覚は少し違う。これ以上、破壊されることがあるのなら、それは、死であり、肉体の解放にほかならないでしょう。たぶん、肉体の解放=死とは、心地好いものだと思います。少し変ですが、覚醒後に悟ったこと。まあ、何なら、いつ死んだっていいわけで開き直り@

 今回、ナツメドクターの判断も含めて、緊急手術を終えて思ったことは、最善のとき、行動できる何かがあるのなら、「いま」「ここで」という地点でしかないということだった。まさかと思っていたことが身に起こり、いいとか悪いとか、それは結果論でしかなくなってしまう。
 これからは新たな構築へと転換していくほうに集中したいところですが、ただ早急に何かがどうとかは無理なので、少しずつで焦らないでいきたい。リハビリも怠けずにきちんとやっていこうと思います。やれやれpisces

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紙一重

天才と奇人は紙一重。

愛と狂気も紙一重。

生と死も紙一重。

地球の未来と世界の終わり(末)------も紙一重。


それで、最近、株価が上がっている作家の「かわかみみえこ」さんの漢字で(?)認識できていなかったのですが、サイン本みろよってw。未来のほうなのか、よも末のほうなのかってことだよね。みえこさん、未来のほうで、よかった。下が長目ってことね。末だと下が短い。この紙一重ですよ、でも、そんなもんかな。

 国籍だとか、名前だとか、身体的特徴とか、人間にはそれぞれ自分なりの固有の何かがあるけど、いちばんだいじなものは、名前だと思う。名前だけで全部わかってしまう。究極に言い過ぎだが、そうだと思う。

 未来の「未」と末期の「末」とこの漢字の区別は紙一重だ。

 池田晶子の哲学論は、うーん、すべてを共振できるタイプのものではありません。でも、未映子さんがすごく影響を受けているのは、やっぱりわかりました。死者は強いなあ、大江健三郎賞より栄誉な感じがしない?私のなかでの頂点は、いまのところ、夏目漱石。(そんな賞はないし、結局、夏目漱石の弟子、芥川が時代をきちんと継承)それにしても、司馬遼太郎も指摘しているけど、日本の日本語の日本文学の体質的なもの・・・・まあこれについては、また次回・・・

 紙一重の人、あなたの近くには、いませんか?
 私のなかでは、みえこさんなのかなあ。
 ずっとその名前のとおり、末のほうではなく、未映子さんなのだろうね。

 歯ーのほうも感想をきっちり書きたいけど、ここらで書かれた内容を解読する時間と、それから他の読書をしているので、もう少し後回しでclubああ、これはね、西田教授と池田晶子なしには解釈は難しいかなあ。こんだけ影響を受けてしまうって、それもありーの。でも唯一評価できるのは、その文体というかリズムだ。これだけは、どうしても彼女とぴったりと合うのです。合わせられる、そのブレスに・・・・彼女は音楽的な才能がきっと優れているのだね。

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デミ・ムーア

Demi
お気に入りの女優を1人あげろといわれたら、
デミ・ムーアと答えている時期があった・・・・
その後、時代が変わり、自分自身のシュチュエーションが
変更してしまったり、映画の影響もあるのだろうが、
お気に入りは、時にはニコール・キッドマンだったり、
ジュリア・ロバーツだったり、ころころ変わっている。

デミの好きなところは、声がすごく低いところ。
1990年に『ゴースト/ニューヨークの幻』という作品が
お気に入りで、そのせいで、デミファンになったのかな。
でも、デミのいちばん好きなところは、はちきれんばかりの
でっかいおっぱいでも、突き出したおなかでもなくって、
声なんだよね、あんな、低い声を出す美人はデミぐらいだよ。
アルトボイスなんて違う、女なのに、バルトの声を出す女。

デミ・ムーアの妊娠ヌード写真は、やはり、すごい。
この写真はアメリカで人気のファッション紙
VANITY FAIR 1991年8月号の表紙として掲載され
さまざまな論争を巻き起こす社会現象になったものらしい。

1位がジョン&ヨーコ
2位がデミの妊娠写真
 自分のなかでではなく、マガジンの世界でらしい。

 商業性と作品が比例しているって、少し皮肉で、
ゴッホが生きていた時代と比べると、この即効性が
いかにもハリウッドっぽくて、尻軽感があるのですが、
まあこれはこれでいいのでしょう。

 デミの妊娠全裸写真も衝撃ですが、ジョン&ヨーコより
少しだけ評価指数は低いのかなあ。

 それにしても、アニー・リーボヴィッツとは@@@@@
 ドキュメンタリーを見てきたのですが、爽快な頭で
出直します、Maybeleo

Demionaka

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Let it be

Jyon_2
苦しみ悩んでいるときには
聖母マリアが現れて
賢い言葉をかけてくれる。
「Let it be・すべてなすがままに」

暗闇が僕をとおりかこむとき
マリアがぼくの前の前に立って
賢い言葉をかけてくれる。
「Let it be・すべてなすがままに」

すべてなすがままにまかせなさい
自然の流れに身をゆだねるのです。
マリアはいつもささやいてくれる。
「Let it be・すべてなすがままに」

****
春一番あとの夜の豪雨の日に、
ビートルズを聞いて寝た。
ビートルズには思い出のいっぱいがある。

高校時代にイギリスに留学していて、
そのころは、ビートルズ一色だった。

ジョンは40歳で他界してしまったけど、
その歌は永遠で不滅なんだと思っている。

あの衝撃写真は、ジョンが暗殺される4時間前のものだったらしい。(雑誌で知る)これも、想定内だったのだろうか。そう思うと、この絵をみると、切なくなる、切なさと狂気と愛の姿とジョンがヨーコに別れる最期の抱擁だったというだけに、それがまたとても切なくて悲しい。しかし、これは、フォトグラフに世界では間違いなく事件と写真とを結ぶ記録にもなっただろいう。そう落とすのは少し悲しいので、この写真はヨーコとジョンのただの写真なんだよと自分にいい書かせている。

あの写真をみてから写真をぱちぱちとるということから少しだけ離れている。被写体の向こうに入る勇気がなくなってしまったのだ。

それで、とりあえず、ビートルズを流して聞いている。

*プライマル・スクリーム
 1970年、ビートルズは休むことなく活動を続けていたが、ジョンはしだいに精神的不安感に悩ませるようになっていた。ミュージシャンの枠を越えた休みなき活動のストレスからきたのかもしれませんが、さらにジョン自身が心の奥底に秘めていた心の傷(トラウマ)が大きな役割りを果たしていた。そんな時、彼のもとに書評を依頼する手紙とともに一冊の本が届けられ。アメリカの心理学者アーサー・ヤノフが書いた「プライマル・スクリーム Primal Scream」という本で、「プライマル精神療法」というまったく新しい心理療法のことが書かれていとのこと。この精神療法は、精神的な苦痛のもとを探り出して明確化し、それを声に出して叫ぶことで解放し悩みを解消しようというもの。
 ジョンの場合、生まれてすぐに父親が行方不明になり、彼は母のもとから離されて、叔母のもとで育てられることになった。その後母と再会しますが、突然現れた父親はジョンの養育権を裁判で争った後、再び消息を絶ちます。そのうえ、やっと出会った母も彼が18歳の時に交通事故で死亡しています。彼の幼い心には、父と母を失った時の強烈な喪失感が刻み込まれており、それが彼を酒や暴力へと駆り立てていた。
 ジョンは、すぐにこの本が気に入り、ヨーコとともにヤノフ博士の治療を受けたことにより、彼は押しつぶされかけていた不安感から救われ、その開放感をバネにそれまでの重荷を歌にして発表。

愛の歌から、イマジン、ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)・・・時代を越えた反戦ソング、平和の歌となっているが、世界平和のための特殊なパフォーマンスがビートルズの宿命だったようにも思う。いっぱいいろいろな歌はあるのだけど変遷をみていくとそうでしょう。

 しかし1972年に入り、アメリカは北ベトナムへの爆撃をエスカレートさせベトナム戦争の泥沼化へ。反戦運動をしているジョン&ヨーコは、政府から格好の標的とされた。この軋轢に対して、彼らは真っ向から対決、裁判で対抗。彼らの住むニューヨークの市長は二人に協力的だったよう。

 彼らは、決して政府の圧力に屈せず、平和集会に出席するとともに、ライブ・アルバム「サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティー」を発表。さらに当時世界的な盛り上がりをみせつつあった「ウーマン・リブ」の主張をこめた曲、「女は世界の奴隷か」を発表。
 ところが、皮肉なことに歌によってフェミニスト宣言をしたはずのジョンが、オノ・ヨーコに家を追い出されてしまう。

*失われた週末
 1973年10月から翌1974年の11月まで、二人は別居。「失われた週末」(割けに入り浸ったアル中)
 いちどは覚めてしまったものの、再びヨーコとの再会。
 おして、再び、2人は恋に落ちる。

*主夫、ジョン・レノン誕生
 ベトナム戦争が終結して、時代はやっと二人に微笑みかけようとしていた
 1975年10月9日ジョンの誕生日に、それまで何度か流産していたオノ・ヨーコがついに二人にとって初めての子、ショーン・タロウ・オノ・レノンを出産。
 ジョン・レノンは専業主夫としての生活を開始。
 その後、1976年から1980年にかけて、ジョンとヨーコは何度も日本を訪れている。

 息子が生まれて5年間の沈黙により、多くの人はもうジョン・レノンの存在を忘れかけていた。しかし、彼は息子ショーンの発した「お父さんはビートルズだったの?」というひと言で再び音楽活動を開始する。それは彼にとってデビュー以来初めて、生活のためでなく、契約のためでなく、素直に作りたいという気持ちから始められた音楽活動だった。

 ジョンは、自由の人になっていたのかもしれない。

<1980年12月8日>
 あの全裸の写真を撮り終えた4時間後だったいう。
 だからかは、わからない、わたしは、この写真をみると、とても胸がしめつけられてしまうのだ。アイムショット!彼は愛する家族と暮らすアパートの目の前で射殺されたとき、それを、そのまま受け入れて死んだのだろうか。こんな理不尽な死に方があるのだろうか。

 でも、それは、マリアに抱かれた心地好い眠りのような、あの1枚のショットにおさまってよいくらいの心境、いや、やはりジョンはわかっていたのかもしれない。その後、起こってしまうだろことについて。この写真は愛の表現だという人もいるが、妻ヨーコへのお別れの写真であり、僕は裸で生まれて裸で死んでいく、人間は本当は、みんな平等で、戦争なんかしてはいけない、愛に生きないといけない。僕は、すべての栄誉、鎧はいらないよ、そう宣言しているようだった。

 ジョンには人生でやり残したこともたくさんあるだろし、人から命を抹殺されるという悔しさだってあっただろいう。でも、それは、なるようになってしまったにすぎない。

 愛とは何なのか。私にはよくわかりません。ジョン・レノン死の直前、全裸でヨーコにしがみつく写真は、衝撃の1枚で、それは愛ではなく狂気もまじっていて、しかし、その後の出来事さえわかっていたのかという隠喩があったりもするかもしれません。天才女性写真家アニー・ビーヴォリッツの映画でも、またいろいろ思うことがあったのですが、これについては改めます。

 睡眠薬と痛み止めに抵抗するように、深夜にかちゃかちゃ打っている。これも、いいリハビリになるようです。頭は相変わらずハンマーでたたかれた感覚なのですが、それでも、こうやってとりあえずかちゃかちゃ打っている。

 いろいろ書きたいことをありますが、睡くなってきたので、そろそろ床に就きたいと思います。

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アース

3回観たけど、映画館でもう1回観たい。
おそらくDVDが出たら仕入れてしまうだろう。
ナレーションはなくても映像だけで十分いける。

冒頭の北極のシロクマの親子がいちば好きなシーン。
この地によくカメラを踏み入れたのかと思うほどで、
間違いなく、今の地球の栄光をとらえたものばかりだ。

春夏秋冬、4つの季節を、世界のあちこちで
地上、陸、海、さまざまな動物たちをカメラはとらえる。
海と雪のほうは、ディープブルーでやっているから、
2番茶みたいに思う面もあったが、それでも、
こっちのほうが、最高峰なんだよみたいにスタッフたちは
頑張っちゃったせいで、大風呂敷なものになったのだろう。
悪く言えば、ちょっと、てんでばらばらすぎないかなあ?
アースというタイトルだから、その名にふさわしいのだから
これで、いいのだろうけども、映像があっちゃらこっちゃら。
あれ、冬が終わったのね、そうか、次は春、あれ、でも砂漠にいって
あれ、こんどは、海にいって、次は陸になって、さあ小鳥がとんだ!
あら、これか、あれ、またこれか、さて、何か?みたいなwww
とりあえず、一回、一回、シーン毎に落としているのだけど、
対照的なものというと、1つの場面で12人の男がやりあう
12人の怒れる男たちっていうか、大風呂敷にも難点はあるね。
ただ、『不都合な真実』みたいな映像で、ねちっこく理論をやるより
こういう映像を見せたほうが、より深く、地球について、そして今現在どうなっているのか、そして未来はどうなるのか、考えるのではないだろうか。
Ea

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横山大観展

朝日新聞社主催
横山大観展
国立新美術館

衝撃的な作品は
「生々流転」=約40メートル
富士山は、やっぱり北斎でしょ?
これは、やっぱり、変わらなかった。

 「生々流転」とは、万物が移り変わって変化し続けることで、山奥の霧が葉の露となって流れ落ちて、でも、やがて渓流から大河となって、それは、最後は海に注ぎ込んで、竜になって天に昇るという「水の一生」が水墨画で描かれているもの。

朝日新聞がまたチケットばらまいているのかしらないけど、想像以上に混雑していて、会場がすごい熱気だった。軽い目眩がした。富士山あたりで、だからさ、みたいに突っ込みいれるとこだったが、この作品で一転。ああ、この展示にきてよかった!すごいや。自分の悩みがあまりにも滑稽でちっぽけだと思った。すべてのものは形をかえ、移り変わっていく。

冬がずっと続くと思うとうんざりする。
でも、冬は、ずっとは続かないんだよ。
悪いものも、よいものも、すべてが過ぎゆくもの。

全身から鳥肌がたっていく感じで、
確かに、さっきまで、ざわざわしていた会場だけど
絵の中に入っていくみたいな、そんな感じにさえなった。

横山大観=生々流転
もう1つ、四時山水もよかったけど、
色を使わず、墨のみで、これは、すごい。

また、見に行ってもいいかなと思う。
ただ、六本木ってのがミソだけどね@
ショップでこまごまといろいろと購入。
筆を仕入れるか悩んだが、ぐっと我慢。
いくら何でも、これは、逆立ちしすぎ@

没後50年 横山大観――新たなる伝説へ
2008年1月23日(水)~3月3日(月)

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Mt.Fuji

Mt.Fujiといえば、ほくさい、はくさいににてる?
いえいえ、北斎(葛飾 北齋)1760-1849でしょう。
前までは、赤富士『凱風快晴』がイメージにあった。

だが、横山大観をみたあと、あっちのほうが名画だと確信。
ただたんに、心境の変化だったにすぎなくて、
なにが、あっちだって、呑み込まれる富士山の絵だよ。

横山大観の富士は、たしかに、たしかにだけど、
彼は、富士山より、もっとすごいのを描いているからな。

Hok

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血と骨

血は母より骨は父より受け継ぐ-。

この作品がすばらしい!とあまり表向き言っていなかったと思うが、たぶん、ベスト3に入る。本で読んだほうがやっぱりいいのだけど、映画のほうもよくできている。

この作品は、激動の大正・昭和を生きた朝鮮移民とその家族の肖像を描いている。ヤンソギルの自伝的小説といわれており、主人公の金俊平は、ヤンソギルの父親がモデルとなっているといわれている。在日一世として裸一貫から身を立てるも、女狂いや、狂気じみた言動は天下一品で、生涯を孤独の中に生きた男として、時代に翻弄され生きた姿を描いている。小説は、息子の視点から語られているのだが、映画のほうは、要所、要所きちんと抑えていて、すばらしい仕上がりになっている。何度見ても、この父息子は狂気じみていて、父殺しというテーマは、シェイクスピアの時代から、描かれていたわけでして、金俊平という男の姿は、あまりのも凄まじく極端すぎる。

映画のほうは小説バージョンのものが圧縮されていて、脚本も考えられているし、キャストがすばらしい。ビートたけし、鈴木京香、オダギリジョー・・・などなど。そういえば、オダギリジョーのことを好きになったのは、この映画をみてからだと思う。オダギリジョーは『パッチギ』にも出ているが、あれはマヌケすぎるが、この作品はオダリギリジョーの俳優としての運命の岐路になったように思う。ビートたけしに食われていない。

何度みても、うるうるきてしまいます、時代だよ、時代。
要所要所、う?なんだ?というところがあるが、
しかし、何度見ても、豚の屠殺のシーンが
しばらく頭から離れないのであります。
豚肉なんか、これ見たら、何週間か食べられない。

この小説と映画で、ヤンソギルの凄さを知った。『月はどっちへ出ている』ではだから、何?みたいな感じだったけど、やっぱりヤンソギルはすごい。

ヤンソギルに関しては、実物に会ったときに、作品と実人物のギャップに悩まされた。こんな作品を書くのに、実物のヤンソギルはあまりにも実直でおとなしかったというのがあって、思い起こすと、大江健三郎よりも、ヤンソギルのほうが、衝撃は大きかったような気がする。作品はすべて魂が凝縮されているなら、ヤンソギルは亡骸にすぎないわけだからオトナシクテ当然だとしても、あまりにもそれはすごかった。大江健三郎が、『万延元年のフットボール』の100年を描いたのよりも、ヤンソギルが、この作品に込めたもののほうが自分自身と密接した関係だってことにすぎないのだけど、その後の作品をみても、この『血と骨』が頂点に君臨するだろうclover

小説は小さな説という漢字であるが、スモールの説、個人的な架空の絵空事だなんて、そんな悠長な小説の定義は、どこのだれがしたんだ?って、そんなスモールなものを打ち破る作品である。映画のほうは、エンタテイメント性も色濃く出されていて、よくできているねleo
Titohone

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12人の怒れる男

12人の男ばっかり出てきて
ナンダヨ、この映画さあtyphoon

しかし、名作だけあって、
何度か、時を置いて見ると
これは、やっぱり、いい映画だ。

お気に入りのベスト10には
ランクインするのではないかと思う。
DVDはお気に入り映画の中に入れている。

怒れるときは、その怒りを徹底的に考えてみようじゃないか。
Ika

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句読点の打ち方

句読点の打ち方には、ディスプレイバージョンと紙バージョンと、少し違うのかなあというふうに思います。

メール文章をみてみると、2タイプあって、句読点がマヌケのように打たれているのと、そうでないの。

一文節に一句読点を打ってくるひとがいる。私自身も、そんなメールには、同じようなブレスで返すのですが、たぶん、この影響は著しくて、よくみてみると、とてもマヌケです。わかりやすくていいんだけどね。

そうだよ、このブログも、やたらと、
ブレスを作っているというか、そうなっている。

普通は、とりあえず、ぱんぱん打鍵したら、
あとで、マヌケな句読点は、省くのが主流なのでしょうmistvirgo

一文節に、一句読点は、あまりにも、マヌケな、文章cancer
でも、まあ、これも、たしかに、悪くないかなあと、あはは。

手帳に文字を書き付けるときは、
ここまでそんなマヌケなことにはなってないはずですが、
ディスプレイには、ある程度、句読点は、もってくるべきだよなあ。

話し言葉がディスプレイで
書き言葉が紙、手帳版って感じですかなあcherry

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冬のピアフ

あれから3Wほど経過した。

こうして、早くも、世に躍り出た。
ううん、体がうまいこと行っていない。
まだ早いとわかっていても、助走のうち。

走り始めてすぐ、これはリタイヤしたほうがよさげ?
だめだめ、そうはいかないんだ、2つの世界で、
破壊と反破壊の間を行き交っている状態である。

ピアフ(すずめ)って、ちょっと突っ込むと逃げるのだけど、やっぱりナーバスになっているのだと思う。やあ元気だった?ぐらいかな。冬のピアフだが、やはりピアフだ。だが、同じ臭いだったのか、こっちに近寄ってきてびっくりした。おお、ピアフのくせしてwおまえとわたしは違うよ、にしても、なにげに、冬のピアフってたくましいんかなあ。鳩ぽっぽの豆がほしくてそらやるよというのとは違う。

@@@
東京マラソンに出場したかたがた、お疲れさまでした。
苦しいことがあったら、あのマラソンの苦しさを思い出せばいいね。
走れるってことは、生きてるってことだ。

青山ブックセンターで仕入れてしまった黄金世代の女たちを、ぱらぱらと。江國さん、川上さん、ばななさん、山田詠美、やっぱり、ここらだなあ@おなご強ですわ。新人類たちも、なにげで、どこかにカテゴライズできそうだが、とりあえず、それはおいておこう。

司馬遼太郎の本をここのところ読んでいるのだが、あまりにも自分の醜い日本語にへきえきとしてくる。そのものが違う、これは、根本的に司馬遼太郎は最初から骨組みができていて落ちるとか落とさないとか違うからだろう。大西巨人やらヤンソギルまでいくと違うのだが司馬遼太郎もやっぱりそれだな。

冬のピアフにはなれそうでも、逆立ちしても司馬遼太郎は違う世界だw日本語を音で捉えるなら、司馬遼太郎の感じに切り替えたいのである。これは空気を変えることだからエラク無理なこと。めちゃくちゃをとりあえずぱんぱんと端そろえて、それで、まあこんなかんじで何となしにサムシングブルーみたいなw

冬の寒さを強化するため身に着けるものに緑の入った青を投入してみる。何とはなしに、テイストをかちっと変えたい気分でそれができない。要するに出だしというか、そのものが違うというか。落とさないんだよね、最後まで、だからなに?みたいなさ。

そういえば冬のピアフの交尾をみた。びっくらした@しかも夕刻。よしサムシングブルーのそなたがとらえてみせようと頑張ったけど、それはカメラで外れた。
Piaf

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ピンクちゃんの行方

2月6日あたりに猛スピードでピンクちゃんは咲いて散っていったのですが、節目の日に切断したので無理だろうと思っていたのです。

7日ほど遅れて、5つめが咲きました。
おしべが8つ。花粉がでるといけないのでつまみました。
花粉をとると、ぐんと、一呼吸して開いたみたい。

花びらは8枚。偶数です。割り切れる世界。末広がりの8。
第二陣が、あなたと、わたし、みたいな状態になってきた。

確かに、この世は、言葉というものからなっていても、
哲学だの、文学だの、とりあえず、一応とっぱらってみようじゃないか。
ピンクちゃんのことをみていると、よし、わかった、哲学はいらない、文学も自分がわからないならそれは必要がない世界と本気で思う。

のほほんと、何も考えずに、なるべくなら
そうやって、ばかになって、生きてゆきたい。

体がえらいこといい感じで、いい練習になっている。
まえまではそうではなかったのだけど、いまは、人に手をさしのべられて
助けられて生きているのだということを実感している。

知っていることでも、知らないという。
ほんとうのことでも、そうでないかもしれませんと思い、
たとえば自分の体が、何かしらで微調整されているように
テンションを少し、テイストを変えるだけで、世の中はまったく違ってしまう。

むきだしのバナナに黄色い皮がついている感じで、
アマリリスの水にハイターという仕掛けがしていることで
ああなるであろうということから、こうなってしまって、花が咲くこともある。

こういうのも悪くない。割り切れない世界(奇数)にI自分自身を足すと偶数。つじつまあわせ。
26Osibe1515amaririsu


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Life is like a box of chocolate

Life is like a box of chocolate
人生はチョコレートの箱みたいなもの

Forrest: My momma always said "Life is like a box of chocolates. you never know
what you're gonna get."
ママが「人生はチョコレート箱のようなもの。開けてみるまで何が入っているかわからない」ってよく言っていたんだ。

この言葉、ある意味、自分のなかで座右の銘の1つです。
*
フォレスト・ガンプという映画の中で、フォレストガンプ(トム・ハンクス)が言った言葉で、映画の冒頭の台詞です。人生、開けてみなくちゃ、やってみなくちゃわからない。だから一生懸命やろう。まずは食べてみようという言葉です。

フォレスト・ガンプの映画を見たことがない人がいましたら、是非是非見てください!

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この映画はフォレストがある日、突然、走りだして(マラソン)ある日、突然、走るのをやめてしまうというところがあって、マラソンを走る柳さんとだぶってしまって柳さんにも贈った映画です。でも、人に、映画を押しつけたり、ラブレターを押しつけたり、人と無理矢理会ったり、結局、いつからかパタンとやめてしまった。

@@@@@@@@@@

どうしてだろう、いつからか、ぱたっとサイン本やらがオクラユキとなってしまったのだろう。大江健三郎のあと、そのあと、だれか衝撃的な人がいただろうか。万延元年のフットボールより、結局、思い出すのは、大江健三郎のほっとなてのぬくもりなのに@でも、ぱたんとチョコレートを食べなくなってしまったのは事実。

忘れていて思い出させてくれたのは、転た寝をしたときに見た夢。ちょうど、バレンタインデーの神様のボートの運航の前に、うたたねをしていると、柳さんが夢に出てきました。どんな夢だったのか、さっぱり今では思い出せないのですが、柳さんとの出会いが節目だったように思います。では、どのように、どうだったか?

たぶん、きっと、わたしは、その三角形の世界に破壊されてしまったのだと思う。作品がすべてであるのなら、その三角形はどうでもよく、要するに悟ったわけですが、それと同時に、破壊も同時にあっていい節目になったと思っています。よくいえば、還暦の花がさいたということ。結局、言葉のもつパワーは武器とはいうけど、それは狂気であり凶器であるということに気がついたからだというのと、あまりにも多くの人と気軽に会いすぎてしまっていなかっただろうか、その魂の奥の部分まで届いた人は、どのくらいいたのだろうかと自問してしまったのです。

私には間違いなく決定的な作品となった。それだけだったのです。しかし、柳美里さんに会ったときの衝撃やら、自分自身のゴールみたいなもの、それを過ぎると、論文完成やらいろいろやって終えてしまうと、生きた人には会っても、意味のないことだと思ったのです。それを引き合いに出すのならテレサ・ハッキョン・チャも登場させないと説明にならないのですが、テレサ・ハッキョン・チャが死亡してしまったことで、なぜチャだけ評価される対象になるのか、私には、生きた人間も死んだ人間も、どちらの作品も同等なんだよ。しかし、学会のほうにしても違ったのか、そうだとしたら、作品が遺品とするなら、ワタシハ少し変なミーハー根性だけだったのか。君は少しヘンだよ、こんだけ集めてどうするの?もう十分さ、君はとwww

ソウセキセンセイに会ったときはともかく、夏目漱石とソウセキセンセイ、時間の止まった人物と、同じ時間を生きた人間、どちらのほうがいいのかと。チョコレートを眺めているのと、食べるのと、どう違うのだろうっていうようなくらいのレベルかもしれませんがw

みえこさんと会ったとき、生きた人間に会えるのは生きているうちじゃんかと思いました。わたしにとって、だから、みえこさんは、とても、人生のなかで大きな意味をもつ作家になると思います。

やあ、こんにちは、フォレスト、フォレストガンプ。一期一会という映画の言葉の意味を、みえこさんと会ったとき思い出しました。これでよかったんだ@

みえこさん、ありがとう。歯のほうは、ラフ作品だったのかなあ@これもご愛敬。たとえ、それが、ちょっと違う味がしても、チョコレートだからまあいいや。

それはそうと、フォレストガンプが好きだったってこと、忘れてました@神様のボートに乗っていれば、結局、いつか会えるときにひとは会えるものかもしれないね。

フォレストがぱたっと走るのをやめるように、わたしもぱたっと何かが変わってしまった。フォレストは、きっとマラソンをやめても、またチョコレート食べて生きていくのだろう。フォレストガンプの子供も同じ名前でフォレストガンプだ。しょうもなく、また同じ事が繰りかえされていく、形を変えて@それでもいいじゃんと思える。

君は、どんな男性がタイプなのかい?
これから即答しようと思う。タイプの男性はトムハンクスなんだ。
Fg

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はじめまして。こんばんわ。

神様のボートは黄色でした。あえていうなら、西の色。春の色とはちがうんだよね。

はじめまして。こんばんわ。白いぴたぴたシャツにはゴールドのスパンコールがついていて、黒いニットにミニスカにクロタイツにプーティーの女性は、かわかみみえこさんでした。あえてひらがなで表記。ナイスバディ。

愛きょうがあって愛くるしい。サイン会は、ほとんどが男性陣で、しかも、石原慎太郎世代なんかもいたりしてびっくりしました。え?うそ?この人の作品って、男の人にうける?みたいに@六本木という世相かもしれませんが、その世相は、三浦しをんや桐野さん、栗原はるみ、カンサンジュンなんかと非対称的なものでした。あえていうなら、同世代の女性は、ほとんどいない。わたしくらいかなあ?平野さんのときにいるようなオバチャン世相もナッシング。

これって、夜の街にむらがった男性がほとんど?これは違う。そう思って、これは引き下がるか悩んだほどです。なんというか少し自分は、違う感じっていうの?なぜって、男たちってのが、まるでホストのお姉ちゃんを一生懸命、もう何せと指名して群がっているひとらみたいな感じです。ミュージシャンも結構いたと思う。ライブがどうのとか、そっちの話が結構きこえた。おそらく、完全に男うけするタイプです。ナイスバディにアイドル顔で知性を漂わせていれば、アイドルとも違うのだけど、おたくたちも含めて、その世相は少し統計的にとれるものではありませんでした。これが六本木なのだろうか。ぎりぎり40代の女性がちらっといるくらい。ほとんど8割が男。しかも、ばらっばら。気紛れなのか、何なのか、わからない。紀伊国屋新宿でみるような、何かしらの法則は、ここではあてはまらない。

おもしろいかっこをしたミュージシャンやら、バーコード頭のつるつるおじいさん・・・・・平野啓一郎さんのときともちょっと違って、オバハンは皆無だったように思う。みえこさん、オバサンに鋭いからなw(作品をよめばわかりますよ)しかしながら、みえこさんの仕立てた一人称に男性陣が寄り添うのかと、その世相をみていると、驚きというのもありました。

みえこさんは、ひとりひとり。ていねいに。

三浦しをんにみるような嫌悪感とは反対の親近感がわきました。ああ、このひと、いい。いいよ。いい空気がただよっている。ちょっとだけなんとなく同じ臭いがする。そう思いました。彼女のほうが何枚もうわてですが、それは、友人に感じる親近感のようなものでした。でも、栗原はるみほどでもないし、カンサンジュンほどしれっとしてない。しかも、いいな、その突っ込み。ああ、こういうサービス精神のある作家、いままで出会ったことがないなあ。

はじめまして。こんばんわ。どっちかっていうと、アルトボイスなんだけど、ちょっとだけそこに色気をエッセンスで加えたような声をしていました。大阪弁なのかなあと、耳をだんぼにすると、最初は標準語なのですが、だんだん大阪弁になっている?ふかわりょうみたいな頭のいでたちをした男性を例にとるとこんなかんじ。

みえこさん:はじめまして。こんばんわ。わあ髪の毛きれいですね。
ふかわりょう似:いやあ、どうも。髪の毛をてれながらなでる。
みえこさん:すてきですよ。いいですね。
ふかわりょう似:いやぼくさ、トリートメントーがうんちゃらかんちゃら・・・・それはそうと、ライブのほう・・・・なんちゃらかんちゃら(音楽系のひとらしい)
盛り上がる:::::

こんな調子でして、それじゃあ、次のバーコードにも頭の毛を突っ込むのかと注視すると、こんどは名前について突っ込んでたかな。そりゃそうだよ、あら、すてきなバーコードヘアなんて突っ込めないよなあ。ところどころ、耳をだんぼにすると、おなかをかかえて笑うような会話っていうか、やりとりもあったほど。

あとは、みえこさんは、突っ込まれたりもしてたな。え????なぬ?歯のおぐあいはいかがですか?って突っ込まれていましたが、いや、ほんとに歯がどうかしたの?この小説の歯と関係有るの?その突っ込みをしたひとは、歯医者さんのような雰囲気をしていました。それから歯ーってなぜのびるとか。親戚たちにもそれ言われてさあ@と軽くかわしていた。うまいな、この人。しかも、それも全部、あいきょう。

@@@@@@@@@@

さてさて、ようやく、我が輩の番です。バナナボードの私は、女たちの書棚をみるほうに、その後、夢中で、突っ込みだとか、ぼけの展開は、大笑いしてから、これは失礼だとおもってひっこむことにしたのだ。

@@@@@@@@@@
はじめまして、こんばんわ。
みえこさん:なんだか春みたいだな、もこもこしているのがいいなあ。春ですね。
***白いニットの上に黄色のセーターだったもんで、それが春っぽかったと思われた。一応、ピンヒールはいていたから、それなりに、ちゃんとした格好になっていたはずですが@@@@
我が輩:いや、あはは、春だなんて。寒いですよ。え?もこもこ?(ナイス突っ込み。ふかわりょうではないけど、ここで、首にまきつけているもこもこに手を当てる。まいったなあ。この突っ込み)あはは。思わず失笑:::::ことばを探す:::沈黙+++++
・・・・・・・それはそうと、乳と卵、ちょっとよかったでーす。
みえこさん:ちょっとって?
我が輩:あはは。
恐らく、みえこさんは、ちょっとっていうことばをスモールと解釈したのだ。
我が輩:いえいえ、大ヒット、つぼに命中::::もごもごと::::失笑。
花束をもぞもぞとさせて、これ、実は、奇数なんです。奇数。あはは。
みえこさん:わあ、嬉しい。
我が輩:おめでとうございます。
みえこさん:(なんやろ?おめでとうって?)一瞬、とまどったふうに思えました。
 ああ、そうそう、授賞式のときの花、一気に枯れちゃったんだあ@
我が輩:あああ、よかった、やっとつながったと一安心しているところ::::
みえこさんサインをきちっとすませてと。
我が輩のオーダー。ふかわりょう似のミュージシャンに書いていた似顔絵をオーダー。ああ、はい、あれね。書けるかなあ。ってことで、似顔絵を描いてくれました。あはは、これってさ、いやだ法令線がはいってるかなあ?みえこさんの似顔絵なんだかわたしのなんだか@@@@

突っ込みしてくれるひとって、いままでひとりもいなかったなあ。ほとんどが、じっとだまっている感じ。友達感覚っていうのかフレンドリーにしてくれたのか、これも全部あいきょう。天性なのかな。たいがいにおいて、ほとんど、無言で通り過ぎるもんだけど、いいな、こののり。

女たちの棚の人とは、一線を画した新人類になるのだろうけど、時代は、結構なところにきて何よりです。しかし、なんとはなしに、よしもとばななの黄金の女たち、たとえば、川上さんというのは川上弘美だよなとか、なら、みえこさんとしよう、こっちは、新人類でも、カテゴリー分けできない人がまた出てきたみたいな。

そうそう、握手のとき、みえこさん。
つめたー
と、つぶやきました。
ああ、ばれてる。寒い女なんだよ。そうそう、神様のボートがちょっと立ち寄っただけでさ。しかしながら、この冷たさ、自分の体の寒さですが、まさか、ここまで、これほどまで、自分の手がここまで冷たくなっているとは、みえこさんのあたたかい手を握るまで気がつかなかったよ。

その手の温もりは、大江健三郎と栗原はるみと平野さんを足し算して割った温かさだったと思います。でも、もっと、そのなかには、過去にあったひとたちの何人かの顔が思い出されました。しかし、ここまで愛きょうのある人はいままでまったくいなかったのは事実。それから、みえこさんにつめたーと一言言われてしまったのだけど(我が輩の手の温度です)完全に、いま、ほんとうに寒い体をしている。これは、冬の寒さだから、時期が来ないとあたためられないよ、そうきちんと答えたいところでしたが、わたしの次にあらわれた40代の女性が、ガーベラを中心にしたすごい花束をかかえていて、なんとなく、すぐその場をあとにしてしまった。

空気だよ、空気、東南の空気だった。神様のボートは、もしかすると、東南に向かっているサインかもしれないな。だし、握手したとき、みえこさんは、東南を昇っている太陽の方角の人だと思いました。この本ね、めくると、真っ赤な色をしています。

これから、どんな変貌を見せてくれるか、楽しみです。どちらかというと、ライブよりも、文字で、文学のほうで勝負してほしい。次はレコード大賞でね、なんて突っ込みも聞こえましたが、路線はどうなさるのでしょう。

突っ込みとぼけと@@@ああ、いいな、大阪って、こういう愛きょうのある突っ込みだとか、まるでお笑いの世界のコントのようで、何か違うな。いつしか、我が輩は、自分自身すらも制御する方法を、アクションゼロというのを身に着けてしまって、その突っ込みにさえまともに答えられない自分になっていたwなんだかそれが少しイタイ。

次の本については、未定だって言っていましたが、みえこさん、これからの御活躍をお祈りしています。あえて、ひらがな表記にしてみた。

ハーってね、her?司馬遼太郎から、こっちにいくと、テンション合わせがたいへんですが、いいな、みえこさん@好きだな、嫌いじゃない、わたしは、わかる口です、このモード。歯のほうは、ところどころですけど、またテンションが戻ったらきちんと読んでみようと思う。もっともっと、深く、ほら、その泣き笑いが、もっと違う表情に絶対にいつかなる。

いまのところ、泣き笑いモード?路線はどうなるかね?
はじめまして。こんばんわ。

@@@@@
六本木の帰りは、大江戸線に乗って帰りました。いろんなひとたちの、いままで出会ってきたひとたち、素通りしてしまったひとたち、次々にフラッシュバックしていき、凍り付いた氷がぐんと溶けていくのを感じました。神様のボートは方向をしらないうちにきちんと操作している。あんまり深すぎるのもきっとダメ、だから、ここらがいい、みえこさんくらい。六本木まできて、なぜ、タオルを仕入れていたのだろう。その意味を、あとで理解することになったのだから。たぶん、はじめましての地点に、いま、ようやく振り出しってところまできた。

それらは、ようやくというところですが、これについての答えがきちんと出せるまで六本木にボートは止まらないだろう、きっと。神様のボートは、ひょんなところで、人と会わせてくれたことで、その忘れていたものをきちんと結ぶということを果たしてくれた。みえこさんは、きっかけに過ぎないのだけど、とても不思議な一日だった。
Miekosan


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青山ブックセンター

神様のボートは、六本木にある青山ブックセンターで小休止。

あくまでもついでです。なんせ予定は未定ですから。

六本木駅からすぐの青山ブックセンターは、小規模な店舗です。

いままで何とはなしに六本木にくるたびに寄っていましたが、紀伊国屋新宿店が自分のなかでのひとつの本屋さんの目安なので、あまりにも小さすぎます。

@@@
書店に入ると、まずは、ジョンレノンとオノヨーコが抱き合ったマガジンにくぎづけ。そのあと、結局、本をいろいろ物色、フィルター制限中なので、また自分との約束を破ってしまいましたが、おもにマガジンということで・・・。やっぱり本屋さんはいいな。

本を捨てて花を買うということを、最近の生活のモットーにしていたので(本はなるべく買わない方針へ)結局、いくつか本を買ってしまいました。黒い花柄の秘密の手帳とやらも仕入れました。ひとめぼれしたのですheart

それから、わたくしりついんはーまい~かわかみみえこさんんほうへもふーらりと。みえこさん、おもしろいタイトルで本を書いていたんだね。ある人が、これはイカンと酷評していたのだけど、結局、サイン会もふーらりと。
Ao


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奇数の花束

神様のボートはある所にとまりました。奇数の花束は、なんとはなしに買っただけなんだけどね。だからラッピングなんててんでなってないよ。

虹色のチューリップを7本。

スイトピーを6本。

奇数(7)+偶数(6)=奇数13

割り切れない世界と、割り切れる世界と、それらを足し算しても割り切れない世界。


花のある生活をするようにしています。
本は買わなくても花を買うというのが最近のセオリー。

それから、人に、何かをあげるときは、枯れてなくなるものと決めています。いつから、それを決めたか忘れましたが、何か儀式みたいに、これは自分の世界にとってはごく普通のことです。

君は、あまりにもロマンチストだなんて、突っ込まれることもあるけど、花を贈ることは、ひとつの挨拶みたいなもの。あなたのオーラが私に届いたなら、私のオーラを花でかえす。わたしのこころを花に託して贈る、けど、それは枯れるから、重くない。そんな感じかなあ。

うちにも、本がなくても、花は何かしらリビングにあるようにしているしな。知性よりもロマンです。枯れてしまうのもロマンだよ。
214kisuu

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予定は未定

いまさら何をと言われそうですが、六本木と麻布は隣合わせだったようです。

神様のボートを運航した日は、予定はすべて未定となってしまいます。私自身が思い描いていた道程とは少しちがくなってしまうのよね。ここ1年、まさしく、神様のボートに乗って生きてきたような感じがしています。

人と会う予定もそういうわけでキャンセルになってしまうこともsweat01なるべく予定を入れないように動いています。予定は未定だからね。仕事のほうだけは別です。いま乗っている神様のボートはバナナ色をしている。

さてさて、六本木のどこをうろつきますことやら。神様のボートは、ちかちか動くネオン街でも止まってくれません。あれも欲しい、あれだって欲しい、物慾どころか、神様のボートには余計なものは詰めないことになっています。それにしても、六本木は自分にとっては凶方位らしいなあ。しかし、これは冬が春になるまでに通過しなくてはいけない道程なのかな。六本木は、またしばらく行かなくなるかもしれませんが、ちょうど、国立新美術館ではおもしろそうな催しもやっていますね。六本木の神様と私の乗っている神様のボートは相性が悪いのかな。

神様のボートの掟=予定は未定。約束を平気で破るなんて、らしくないけど、ここは素通り。平気で人の約束をキャンセルしてしまう理由を述べるなら、周波数がとか、テンションとか、体調とかそんなんではなくて、神様のボートが止まってくれなかったんだよと言うことにしています。言い訳は言い訳に過ぎないのですが、どうしようもないよ。

夜の六本木は想像以上に寒かったです。神様のボートはあまりにもおきまま運転だ。漂ってどこへゆくのだろう。ヒルズの彼はヒルズの女とうまくやっているみたいで、でも、そういうのは、もうどうだっていいことで、何となく過ぎ去ってしまった季節と折り合いをつけられたように思います。

神様のボートは、バナナ色。

あまりにも寒くて、この日は、ふわふわのバスタオル(バイオレット)を1枚仕入れました。家に戻って、なんでこんなもんをと自分に突っ込みを入れたかったところですが、神様のボートに乗って、水しぶきがかかってしまったからというオチにしておきました。
Roppongi


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アポカリプト

いまパソコンの内部データをきれいにしている最中なのだけど、いらないものを捨てていくと結構軽くなって動作が速くなるなあ。様子をみてみようbleah

それから、方向性というか、つまり、これはブログだけでなく、たとえるとアポカリプト君の生息場所にしてもそうなのだけど、このこは、家のなかには入れない方針でいる。温室で育たないばあいは、どうなるのか、腐ってしまうのか、どうなのか。

この表ブログの方針としては、糞ダメ場みたいにしたくないので、消費されるものと対局のものをなるべく目指したい。それがいままでできなかったのもあって、ここがふんばり時。たとえると本居宣長みたいなのを目指したいと思っている。恐らく、ちょっとやそこらでは、ここらは難しいだろうがw

ガーデニングのほうだけど、雪がとけたあとに、アポカリプト君は大きなホワイトの鉢にうえかえた。寒くても辛抱するという方向へ。アマリリスを外で育てたことはないので、もしかして、だめかもしれないけど(花がつかないかもしれない)方向性を決めるって大事かなあとw温室で育たない花はどうなるか。アマリリスって基本は温室だからね。

新しい始まりは、ぶっ壊したときに、手放して何かがなくなったときに初めてやってくる。まあそんな意味もあって、白い花が咲いたら、合図ってことにしましょう。咲かなかったら、まあ、しゃあない。何の合図かというと、カテゴリーわけの春の合図ね。カテゴリーのほうは正月に整頓したんだけどさw前のができてなくて一度ぶっ壊れてしまったんだけど、新しい始まりの時期っていうかなcoldsweats01

まだまだ季節は冬ですsnow

ああ、あとそれと、柳さんのこと、やっぱりすっごく応援している。なんとなく日大関連とか前やっていた研究とかとぱらったけど、一区切りつけたつもりっていうのが大きい。けどやっぱり、戦っているひとたちは眩しい。はやく自分も戦う女性になりたい。でも、自分はわかっていても、周りからは、なんでそうなん?もうええわあって言われていても、僕の基準は僕にしかわからない。とりあえず、いまはリタイヤしているから、それがとてもつらいのだけど、これも、精神的にも肉体的にもバックアップが必要っていうか、アポカリプトっていう時期になっている。どんどん捨て去る。守るものが何もないから強いな、僕はw

来週から現場復帰します。もう7日ないか。早い気もするんだけど生きるために走るのだsun生きているうちは、戦っていたい。守るべきものはないから倒れても平気っていうのが大きい。

僕が僕であるために、勝ち続けなくてはならないのだ。オザラーだから、もしだめだとしても、つまり、アポカリプト君が、花が咲かなくて、だめになってしまう可能性も大いにあるのだけど、それでも、僕が僕であるために、生きている間は、たとえドクターストップの時期でも本能で、つまり、戦う路線でいきますwinkまだ20代のときのやれるまでやれるっていう感覚、戦う感覚でやっていきたい気分に切り替わっている。せき髄注射してる日にそんなことを思う奴は問題だって言われても、それでも、それが自分の本能ならそれでいい。何も自分には守るべきものがない。いつ死んでもいい。愛する人がいないから、とても身軽だ。きっと普通はこの年になると守るべき物がいくつかでてくるものだろうが、僕は愛する人がいないから強い。まだ愛する人に出会っていない。だから、まだまだ、守りにはいらない。ナツメドクターには、ことはちゃんと報告します。

僕が僕であるために
僕であり続けるために
勝ち続けなきゃならないheart02

いまは確実に季節は冬だけど、それでも、もう僕は走りだすだろう。
Ap

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過信と不信のあいだ

人の言うことと書いて信じるという。

過信と不信の間をいきかうと、たどりつくと信じるになるときがある。

ひとと話して、新しく開けてくるときがあるみたいにw

このパソコンをバックアップしてクリーニングすることにした。過去ログは近況等、ミクシィへコピーしておく。このパソコンがお陀仏となったら、次はアップルかなあ@お休みするべき期間だとしても、なんとなく、それらを文字にしておきたいしょう動があり、だめなんだけど、どっちかっていうと引き摺られているっぽい。闇黒のほうへ引っ張られているようなw

こっちではエラーだよなあwいいテンションに上がったらこっちにまたアップだね。
Bc

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司馬遼太郎

ここのところ本は司馬遼太郎を読んでいる。

すごくバランスがいいな。大西巨人がごつごつしていた男性世界のものなら、司馬遼太郎もそうなのだけど、巨人ほどでもなく、それよりバランスがいい。何か真ん中に一本がっちりした線が通っているのだ。下手をすれば、あれ、何か教科書に書かれているような文章みたいだなと思わなくもないけれども、それでもいいな、このバランス感覚だよ。

この調子だと、司馬遼太郎は恐らくお気に入りの作家にランクインしてしまうだろう。好きだな、こういう文章を書く人が。いまの自分にはひとかけらもない、背中の筋の通ったまっすぐした、何か違う角度できちんと文章が組み立てられているところ。

大西巨人が、ううん、わからないや・・・となってしまうのと違って、司馬遼太郎はバランスがいいもんだから、そういう拒否感みたいな、拒絶しているというか(読者に対してね)そういうのがない。バランスがいいってこれだよなあ。ううん。これだよ。理解するとかしないとか、そういう次元ではない生理的な部分だね。これについては、『にごりえ』樋口一葉を読んだとき、どうやって説明していいか少し悩んでいたのだが、文章を音でたとえるなら、一葉のほうは、女にしか出せないリズム感と、女が演出するミュージカルのような世界(例を出すと宝塚)だが、司馬遼太郎のほうは、バリトンの音色ばばんばん出てくるオーケストラーみたいな、低音ががっちりしているせいで、調和が骨太になった調合のとれたバランス感があり、やっぱり、何か根本的な音が違うのだ。つまり、これは、好き嫌いとか、そういうものより、そのときのテンションももちろん関係していて、だから生理的なレベルで何となく司馬遼太郎を好んで読みたい時期みたいである。

司馬遼太郎は連作のがっちりしたのが多く、わあ、そうかってな具合で、まだまだ読んでいない本がたくさんあるなchickそう思うと何か楽しみ。未読本があるっていいことだよ。


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建国記念日

だんだん日も長くなり暖かくなってくるはずですが、いっこうに寒い日がつづきます。花粉が飛び出していて、外に出るときはけっこうつらくなってきました。こうなってくると薬しかないか。

渋谷は元気があって何よりです。体のほうは抜糸も終わったところでいますぐにでも社会復帰したい気持ばかりあるのですが、まだ無理そうだ。早ければ来週から普通のテンションに戻していこうと思っています。

気持だけが焦ってしまって、何を焦ることもないのだけどさ、すごくバランスが悪い感じが続いている。まだフィルター制限が必要な時期かもしれない。体がついてこないのである。

109で靴を買った。プーティでヒール8センチ。こんな体でもハイヒールで頑張ってみよう。これはすごいリハビリである。それから美容師さんに髪の毛のほうをさあ、あれですよ、何となくこれプリティーウーマンのあれみたいだwおしゃれをしてテンションを無理にあげてもだめなときはだめ、まだ寒すぎるtyphoon
Kenkoku

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腐ったゴミ

ここ数日の自分のものを読んでみて、どうにも腐ったゴミのような文章をはき出しているwテンションを変えなくてはwww『私の男』はミクシィへ移動。反響がほしい。こっちだとノーコメントで腐ったままになって腐敗してしまうが、あっちだと新しい風をコメントにつけられるwいろんな意見があっていいよ。

弱っているときは、マイナスなものには、あまりふれてはいけないとすると、少しゴミを出しすぎているように思うのだが、そんなわけで、開運は3月から。とりわけ、こっちは開運をすごく意識しているサイトってのもある。++ってのを4ついれているというポリシーは守らないとならないよね。

ことしのバレンタインは義理チョコで終わりそうです。六本木で元気だったらデートできるかなあ。その日の気分で動いているところが・・・遠い目。元気ならビックイベントもあるだろう。キャメロン監督が行ったお洒落な店があるのだけど、体力的に無理かなあ。

本命の人にあげるチョコレートは手作りではなくゴディバと決めています。義理はほかのブランド。ことしはゴディバがないけど、ある男友達と和解するかもしれない。あくまでも友達。

確実に人生は上を向いてきているはずなのに、どこまで独りでがんばれるか試してみたいところでもある。このブログは恋人にも見られてもいいようなものにやっぱりしておきたい。

腐ったゴミみたいなブログにはしたくないので、少し、浄化方向へ。塩をまいてお浄め。
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乳と卵

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文藝春秋、2008.3.

『乳と卵(ちちとらん)』川上末映子
 第138回下半期 芥川賞

先日、出版社の友人と語らふ機会があり、最近、文学界のほうはどうよ、君の意見を聞かせてくれないか、どう思うかい?みたいなことをおしゃべりし、今実はさ、闇上がっていてフィルター制限中だから、わからないっていうのか、本は読まないようになるべく注意しているとことかこたえていて、ただ、最近、どうなのよ、出版界のほうはどうよ?あなたはどうよ?がんばっとるの?たいへんなまんま?そこで友人がまったく嘆いており、困ったもんだよ、最近は、どうなっちゃっているのかな、芥川賞もイッパツヤみたいなかんじで、しゃぼんだまみたいに消えていくのが通常で、まったくもって威勢がないもんだね、ほんとに・・・暗くなっているわけでしたが、コメントができずにいたわけで、なんとなく、そうだなあ、どうだなあということすら言えなく、なんとなく申し訳ない気持も沸いて参りまして、とりあえず、発売されたばかりの文藝春秋、2008.3月号を読んでみるになったしだいでありますが、まずは芥川賞の『乳と卵』を読んでみると、わあ、結構、いけてるじゃああーりませんか、いいよ、いいじゃない、まあそれがぶっちゃけた、自分自身の個人的見解。友人がいうに、困ったことは、担当した、さりとて、それが持続するかどうなのか、そういった、一髪デビューですい星のごとしということについてですが、そんなさ、まあ長い目でみようや、いいよすい星だってさ、いいじゃあーりませんか、ただ、友人にいってあげようと思う、ダイジョウブダヨ、まだまだ、ダイジョウブ、そんなテンションのことをいってあげませうと思っていた矢先でありました。

 『乳と卵』は、まず、構成がいい。樋口一葉の「たけくらべ」をオマージュが隠されていて、作品そのものを、語り手となるわたし(樋口一葉=作者=川上末映子=叔母の目線)距離がまず成功の要因に思える。主な登場人物は、女、3人、語り手=わたし=叔母、その姉である巻子、巻子の子供、卵子である緑子である。
 物語は、○←卵子の記号?からスタート。これしゃれてるじゃんか。いいな、このマークが。

○ 卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです(352)
 
 最初、この○っていうのは、あれ、これは満月の○なのか?満ちたこと、○サイン?あれ、卵?ん?月経のこと?女性の周期?何と当惑しかけたが、卵子の記号のようでして、つまりですね、これは、○卵子、つまり卵細胞ではなく、無精卵でもなく、精子と合体して、生物となった子供、ここでの重要パーツ、タイトルにある、卵の部分を担う、緑子の部分ってところね。(←わかりやすいね)翻訳がだからいらないんだよ、いいね、こういう親切さは、まれだよ、いい。

 まず、問題は、女性性、ジェンダーってことになるのだけれども、かんぺきに男性ってのを排除して、とりあえず、ならば、その精子ってのは、いいのよ、まずはいいの、無生物でも無精卵でもなんでもない、生物としてでてきた緑子に、それは、役割をということなのかね。ううん、悲劇の緑子、卵子と精子が勝手に合体して、それで、出てきてしまったのならば、それは、いわゆる、人間であり、生物であり、人格をもった1人の人間であります。

 あとは、タイトル勝ちってとこもあるね、適当にやっているわけじゃないんだね、卵子=○の描写からはじまり、乳の描写で終わる。奔放そうな大阪弁でありながら、絶対にそうではなく、抑制され、計算されて、この小説は出来上がっているのである。これ、まるで現代版の樋口一葉「たけくらべ」の息遣いとよくにているのであーります。それから、文体についてだが、息が長くなっていて句読点、オチハドコダーイというところも、まったくもって一葉さんじゃあーりませんか。ただし、樋口一葉の文庫を手に取ってみればわかるように、「たけくらべ」ひとつとっても現代口語訳=翻訳なしに、解読はもはや現代では不可能となっているのである。そんななかで、この作品とこれば、まるで、これは、樋口一葉さん、現代バージョンと喝采をあびてもおかしくありまへん。「たけくらべ」で主要な人物である美登利は、ここでいう緑子、卵、○の部分をになっていて、大巻は巻子、それから、語り手である夏は、ここでいう叔母になるわけですが、どうでしょうか。 句読点について、翻訳したものをみるとて、これ、樋口さんはどこらへんをどう思っているのか、やたらとブレスはながいですよ。つまり落としたがらないってこれですよ、では、さてさて、落とさない文章とはどんなものなのか、みてみましょう。内容を落とさないという問題も出てくるわけですが、ここについて落とさないとは、句読点、つまり○、卵子の輩出、つまり月経で、月に卵が1つしかでてこない、そんな勢いで、句読点の○をなるべく落としてこないのです、意識的にか、卵子を意識してなのか。樋口さんがそうならば、こちらもしかり。わたしは、なるべく、落としたい派でして、○はともかく、てん、「、」こっちはないとパソコンならばみにくいでしょ?デモ本ならいいでせう。

 巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年も前に別れているために、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したこともなければ巻子が会わせたという話も聞かぬから、父親の何らいっさいを知らんまま、まあそれがどうということもないけれども、そういうわけでわれわれは今現在同じ苗字を名のっていて、ふだんは大阪に住むこの母子は、この夏の三日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります。(354)

 巻子の年齢は39歳で、緑子は、小学校6年生で、周りの女子は生理がきたり、おっぱい(乳)がふくらんだりと、女子でも複雑な時期で、お母さんは豊胸手術のことで頭がいっぱい。わたしが卵子なら、お母さんは乳、めさんこ、めんどい、お母さん。卵子と精子が勝手に受精して、わたしがうまれて、食べて、いっぱいいっぱいで生活して、体はどんどん変化していって、おっぱいはしだいにふくらんできて、あそこからは血が出て来て、まったくもって、生きるっておかしなことばっかり。わたしは、その発生すらを、卵細胞に受精した精子と卵子の掛け合わせすらを、たぶん、否定しているのだと思う。こんな苦しい思いをしてるんなら、わたしのために、おっぱいがぺたんこになって、豊胸をしなきゃならないのなら、お母さんはわたしなんて生まなければよかった、悪いのは精子と卵子、わたしはおとなになんかなりたくない。○=卵子については、おおむね、こんなテンション。
 乳を担う巻子は、豊胸ばかりに夢中で、哲学的なことはそっちらけといった印象でありまして、ほら乳首がアメリカンチェリー色だとか、ぺったんこだとか、乳ばかりにこだわりをみせていて、まるで魔物にとりつかれたように、馬鹿一色のノーテンキ女といった感じではあるのですが、たとえば乳の描写1つにしても、その乳をリアルに描き、色がどうの、形がどうの、女が母になる、そのリアルさを乳をリアルに描写することできっちり描き、そして、その乳はいったいどこへどうなっていくのか、最後にはふうせんはしぼんで、ぺったんこ、まるで、ぺったんこのへんなただの物体、それは、ただのゴミでしかないわけで、そういった辛辣な描写を容赦なくできるのは、3人称で巻子が描写されているところにあり、いわゆるきっちりとした乳なり卵なりの描写が必要なわけで、そこを描かずどうなるかというわけで、男の出る幕はここにはまったくなし。じゃあ、そのパーツをしっかりみていこうや、ならば、さりとて、豊胸について、男はどうとか、ジェンダー論が一部差し込まれたりもするが、女性性の、いえ、乳の、女の胸に強制的に昔からあてがわれた歴史的過去や社会的役割というところになるわけですが、ただ乳といっても、それそのものをどのようにとらえるべきか。まずは、ここを、きちっと、リアルに演出してみよう。

 長めのブレスで、そこに躍動的な大阪弁を挿入して饒舌な文体がとても巧みで、文章がまるで何かの音楽のように、すとーんと読む人のなかに入っていく、いいリズムの文体である。無駄で奔放な大阪弁のコントみたいなのとはちょっとちがくて、無駄もなくきちんと制御されたなかで、これは、下手すると、計算された、お笑い芸人のノリのような部分もなくもないのだが、構成そのものも、きちんと計算されていて、まったく、悪くないのだ。ただの笑いじゃなく、ただの突っ込みでもなく、とても切ない、根元的なところでぎりぎりのところで小説が成っているのだ。

 卵をぶつけあうシーンは、これは暗喩にしては、ちょっとこけてるんではないかと思うが、これも許容範囲。卵は、中身は白いのと黄色いのだけで、成長したもののみが、ひよっことなるわけで、卵そのものは、何ら、生物として機能しないわけで、ぶっつけて落ちて捨てられようが、月経となって流れてくる無精卵のごとし、意味のないものでありまして、緑子は、「お母さんは、ほんまのことゆうてよ」と迫るわけで・・・・
 ほんまのこと、ほんともくそもないのである。

 精子はどこで出てくるんかよ?そう紐解けば、出てくるのは、精子となった緑子の父さんの、哲学的でもあり、親として責任あいまいな、この1描写のみでございます。でも、これも、冒頭の描写同様に、生命の本質、結構、するどい哲学的なところを突いているではありまへんか。

 あの人な、云うで、『子どもが』出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』(377-378)


 生きるということ、発生について、どこからきて、どこへ向かうのか。人間の存在とはいったい。そこを凝視してみるなら、自分が、いま、ここに存在しているということのほんとうの意味を、その哲学命題を、自分なりに突き詰めていくとき、答えはどこへ行き着くのか。精子と卵子、遺伝子、それだけではないということなのか。いま、ここに自分がいること、生きていること、そして、いつか、着陸して死ななくてはいけないこと、そこらへん、あんまりつきつめていくと、答を出そうとするならば、待ち構えている狂気になるだろう。歴史をひもといても、文学者たちをみても、これは証明される。だから、これ、緑子がほしい答えについて、ほんとうの答はだれにもだせない。精子にも卵子にも、彼ら自身もどこからきて、どこへいくか、わかっていない。だけれども、ここで、絶対的に確かなことは、いま、ここにこうやって、よくわからんけども、ここに自分が生きているということ。いつか訪れる死が存在の過誤であるだろう、闇への回帰だとしても、ほんとうのことはわからない。これは人間生命の哲学的な命題になるだろう。でも、この作品では、狂気とか、どうとか、ほんとうだとか語らない、さらっと、ただ単に、ありのまま、単調な東京弁(大阪弁ではないのは、ここのみ)で、1センテンス出てくるだけ。ううん、でも、これが答えだよ、いいとこついている。そして、問いつめない、闇がどうとか、狂気までいかない、泣きながら、そうやって、じたばたしながら、おもしろおかしく、女3人の、ひと夏の2泊3日のどたばた劇が描写されて(主に巻子の豊胸=乳がメインテーマ)でそれとかなりいい味を出しているのが、大事なパーツ、○←卵子、巻子の娘、緑子の視点からみたあれこれ、それから抑制された、わたし自身の3つの視点でつむがれているわけなのですが、なんだか、とても、めさんこ、めんこい、それで艶があってあやしくて、これは、すごい才能ではありまへんかい。というか、はっきりいっておもしろくしすぎの気もする。ひゃあ、ここまできたかいな、でも、それが、つきつめて狂気って部分まで到達していない、でも、結構、あぶないところを、さらっと突いている。
 ほんとうのことは、冒頭にあるように、精子と卵子、そしてわたしがいる、わたしが生まれたという事実だけなのだ。そして、それは、まぎれもなく、人為でもなんでもなく、だれのせいでもないわけだ。
 わたし自身も、この哲学的な答えにいきつくのに、人生の半分を費やしてしまったが、これしかないのである。いくらセックスをしてかけあわせようて、精子と卵子がきちんと受精するなぞという確率のようなものは、まったくもって意味のないもので、バースコントロールということば